駆け出し能マニア的、茶道考

一部に、能と茶道(茶席)をどちらもパフォーマンスと捉えて比較するむきがある。曰く、茶道にとって、茶室は舞台であり亭主はシテ、会記は詞章であり、客はワキであると。確かに、大寄せ茶会など茶の湯(茶事)の一部を切り出せばそうと言えなくもないが、同意し難い。

詳しい話は別の機会に譲るとして、能マニアの視点から見た茶道の点前についての考察。能の舞いは、型の組み合わせと考えることに大きな異論はないと思う。型と型を繋ぐ際にあしらいのようなものが挟まることはあるにせよ。茶の湯の点前も、型に分解することができる。道具や茶室の構えなどによって、特殊な所作が入ることはあるにせよ。

茶の湯に詳しくない方が点前を見ると、「作法が多くて大変ですね」という感想を持たれることが多いと思う。しかし、それらは「作法」ではなく、「型」なのであり、仕舞におけるサシ込ヒラキ、左右などど同じで、そこに深い意味はない。型の順番を覚えること、一つ一つの型を磨くことが稽古の本質である点で、能(仕舞)と茶道の点前は共通である。

実は訳あって、この一年間、真台子の点前に取り組んできた。一つ一つの型を磨くことの重要性を痛感した。順番は重要ではあるが、それより一つ一つの型を大事に。型はそれぞれ完結しているので、一つの型が完了するまで次の型に移らないことも重要。流れに気持ちを奪われると、ここが疎かになる。それでいて、間が大切。間は、心を一つにするためにとても重要な役割を果たしている。間が悪ければ、亭主と客、役者と観客の心は一つになり得ない。この点も両者に共通するところだと思う。

青春のリグレット

1985年にリリースされた松任谷由美さん17枚目のアルバム『Da・Di・Da』に収録されている秀曲。誰にでもあるだろう、青春のほろ苦さをテーマにした楽曲。「後悔」を「リグレット」としてるところが、いかにも「ニューミュージック」という雰囲気がある。

この曲はリリースから10年後の松任谷由美さんのコンサートツアー「In to the Dancing Sun」でとりあげられ、印象的なシーンを残している。アメリカの大学卒業生をイメージした衣装からして「青春」であるし、ダンスの振り付けはアメリカのカレッジフットボールのハーフタイムショーで見られるダンスチームによる隊列が整ったダンス風。これも、「青春」を刺激する。

極め付けは「私を許さないで 憎んでも覚えてて」という歌詞。「笑って話せるの なんて悲しい」という詩と相まって、「青春」を際立たせている。

青春は後悔の連続。それを笑って済ませるのではなく、憎んでまでも胸に刻む。忘れない。思えば、青春からはずっと歳をとっている自分の行動規律は「後悔(リグレット)」にあるのではないかと思う。40年前の早稲田大学東伏見プールにおける試合。完璧に締め括れない自分がいる。また「リグレット」を残した京都・南禅寺。

京都に来ています

一昨日(4月4日)から京都に来ています。荷物を満載した車で午後に八王子を出発、中央道・名神高速をノンストップで走り切り京都に到着しました。旅の目的は、南禅寺で開催される茶道宗徧流全国流祖忌。流祖・山田宗徧の318回忌法要と茶会です。

不祥、私はこの流祖忌で南禅寺法堂において全国の宗徧流門人を代表して献茶をご奉仕する栄に浴しました。このことが決まっていらい稽古をはじめ、年が明けてからは獨楽庵に真台子を持ち出して稽古を重ねてきました。結果は・・・自分の至らなさを痛感する結果となったわけですが、同時に歴史というか人間の営みの流れのようなものを実感することができた得難い体験であったとも言えます。

かねて、茶道の変遷について、たとえば利休の革新についても、全ては茶の湯の大きな流れの中にあると評してきました。どんなにユニークに革新的に見えることでも、そのルーツは茶の湯という大きなうねりの中にあるという意味です。成功も失敗も、全て。その堆積こそが歴史。であるということを痛感させられた本日であり、この一年間であったと思います。

明日は京都でお茶に招かれたあと帰京します。