短いところがイイ

とある小唄の会合での挨拶。ズバリ、「小唄は短いところが良い」というお話し。我が人生の師である泰斗ハーさんは、常々同様のことを仰っていた。ハーさん流にひねりが加えられているが。ハーさん曰く、「小唄は短いとろろが良い。相手に対するダメージが少ないから。どんな下手な唄でも三分我慢すれば終わる」。もちろん、ハーさんは下手ではないどころか名手である。

よくも悪くも、この「短い」というのが小唄の宿命である。例えば、三越劇場などで催される大きな演奏会。唄手、糸方合わせて百名以上の演奏家が集うのであるから、確かに大演奏会である。しかし、小唄ならではの悩みがある。まさに、短いが故の悩み。一曲3分。二曲唄ってもせいぜい5分。これだと、遠方の知人に声を掛けるのが申し訳なく思えるのである。1時間以上の時間をかけて劇場にお越しいただいても、お呼びした当人の出番は5分で終わってしまうのである。このあたりに、小唄の演奏会が今ひとつポピュラーにならない遠因があるのではないかと思わざるを得ない。

一方、座敷で同好の師と小唄を楽しむときはこの「短さ」が生きてくる。どんなに下手でも3分我慢すれば終わる・・・とは言わないが。

1984

とある業界の将来像と戦略について議論していて、自分が明らかに権威主義に傾いている事に気がついた。

その時思い出したのが、Apple創業者Steven Jobsの1984年のスピーチ。彼はAppleとIBMを対比するなかで、如何にIBMが新市場のチャンスを失ってきたか述べている。1950年代のゼログラフィ技術、1960年代のミニコンピュータ、1970年代のパーソナルコンピュータ。パーソナルコンピュータには、大慌てでその名もIBM PCをもって参入しているが。

ミニコンピュータは、Digital Equipment Corporation (DEC)が生み出したセグメントであるが、IBMは、”to small to do serious computing”としてdismiss(拒む)した。Appleが生み出したパーソナルコンピュータも同じ。

新たな胎動を当時のIBMのようにdismissしてはいないだろうかと反省した次第。

リンクはそのJobsのスピーチ。https://youtu.be/xopj35NvcHs?si=QtGvEv7vXwZ-UQBX

趣味

趣味は?と尋ねられると「茶の湯、小唄、能楽」それと「ゴルフとテニス」と答えるしかない。ほとんどの方は、「和事がお好きなんですね」と仰る。

確かに客観的に見れば「和事」が好きなのかもしれない。しかし、それは結果論であり、成り行き任せの成れの果てなのである。

私を小唄の世界に引き摺り込んだのは、地元における小唄の泰斗「はーさん」である。同窓会の重鎮にして地元経済界でも一目置かれる「はーさん」からある時電話がかかってきた。「今から遊びに行ってもいいかい?」「もちろんです」 しばらくして「はーさん」が来社。しばらく世間話をして「さあ、行くか」と。「どこに行くんですか?」と聞いても、「ついてきたら分かる」の一点張り。かくして到着したのはビルの最上階にあるカルチャースクールの「小唄教室」。数名の受講者がすでに着席していて、真ん中に師匠が。何がなんだかわからないうちに、「じゃあ、唄ってみましょう」と歌詞を渡されたのは、「伽羅の香」だったと思う。

師匠について何度か唄うと少しは慣れてくる。そうすると周囲から「男性は声がいいわね」とか「筋がいいわね」と妙なお褒めの言葉が。これに浮かれた訳ではないが、正式に入門して稽古を始めることになる。その後、師匠は2度変わったが今でも小唄の稽古は続けていて、25年を数える。年数だけ言えばベテランの域かもしれない。小唄はすでに人生の一部になっている。このような世界を与えてくれた「はーさん」にまず感謝したい。

この話には、重要な前段がある。「はーさん」は常々「人間誘われるうちが花」と仰っていた。文字通り取れば、「誘われるうちに、やっておきなさい」ということ。しかし、これには裏があって、「誘う方も真剣なんだ」ということ。自分が属してしかも大切にしているコミュニティに新人を誘うことはとても勇気のいることだと思う。その輩の行動遺憾によっては自分のコミュニティ内での立ち位置に係るからである。だから、そのリスクを承知で誘うということは、そのことをしっかり受け止め真摯に決断すべきだということ。もちろん、誘いに乗ることがベストであろう。

思えば、誘われたら断らないということは私の人生訓かもしれない。