能「忠度」は、世阿弥作の典型的な複式無限能である。前シテは忠度の亡霊が姿を変えた尉(おじいさん)とかつては藤原俊成に仕え今は僧侶となっている人物(ワキ)との邂逅。後シテは、もちろん忠度の亡霊である。
この藤原俊成に仕えた人は今は僧侶になっている(僧侶がワキなのは、ある種の定型)。とある理由(今回は、西国を見たことがないので)により旅に出る。須磨の浜に早くに着いたので休息をとっている。(名所で休憩を取るのも定型)。そうこうしていると、橋掛から怪しい人が現れる。今回は、尉(おじいさん)である。尉と僧侶は言葉を交わし、僧侶は「暮れてきたので宿を貸して欲しい」と切り出す。すると、尉は「この木の下ほど相応しい宿はないだろう」と突っぱねる。そしてボソッと「行き暮れて木の下陰を宿とせば 花や今宵の主人なるまし」と呟く。それこそ、主人公「忠度」の辞世の歌なのである。ここで、尉と忠度の関係を匂わせながら、尉はスーッと消えていく。ここまでは前シテ。
後半(後シテ)は忠度の霊そのものが登場し、自分が討たれる場面を説明しつつ自分が読んだ歌が勅撰集に選ばれたのだが「読人知らず」とされたこと妄執となって成仏できないことを説明する。ワキ(僧侶)は回向を捧げ、修羅の時間となった忠度の霊は去っていく。
忠度の辞世の歌と言われている「行き暮れて木の下陰を宿とせば 花や今宵の主人なるまし」。この歌がこの能のテーマなのである。宿を求めたワキ(僧侶)に、前シテ(尉に姿を変えた忠度の亡霊)は、この木の下で休めという。ワキは「どなたを主とすればいいのですか」と尋ねる。そこで尉は「行き暮れて・・・」の歌を読むのである。で、僧は「その歌は、薩摩守(忠度)!」では、あなたは?と。ここで、“もったいぶって“、尉は消えて行くのである。
そして後シテ。自分の身の上を説明しきった忠度の霊は、僧侶(ワキ)に供養を頼んで消えていくのである。