ファラフェルというのはイスラエルを含む中東(特に地中海沿岸)で広く親しまれている料理で、簡単にいうとひよこ豆のコロッケです。同じく、ひよこ豆かた作ったペーストであるフムスも彼の地では人種を問わず親しまれている食べ物です。同じものを食べていながら、骨肉の争いに無情を感じつつ現地で見聞きしたことをまとめます。
異教徒である私は「旧約聖書」と「新約聖書」の違いには極めて鈍感でありますが、今回エルサレムにある国立図書館を訪ね、聖書に関する研究所のあまりの多さに、現地の人に尋ねたところその答えが示唆に富んでいたので、忘れないうちにまとめておきたいと思います。
なぜ聖書を勉強するのか。イスラエルにはオーソドックスと言って、黒い服に身を固め一日中聖書を読んでいる人たちがいます。彼らは聖書を勉強する代わりに国から保護を受けているので、働く必要はありません。では、なぜ聖書の勉強がそんなに仕事と両立できない程大事なのか。どんなにありがたくても、聖書は聖書です。研究対象は有限であるので、いつかは勉強も終結するのではないかと思うのですが、実際は「無限」なのだそうです。ですから、一生を賭して勉強する価値があるのでしょう。
では何故「無限」なのでしょうか。それは、解釈が無限だからです。イスラエルというかユダヤ人社会には、ラビと呼ばれる聖職者がいます。聖職者と言いましたが、ラビの影響力は宗教にとどまらず、ユダヤ人の生活の細部に関わります。何か迷ったことがあったら、身近な住職や神主さんに相談に行くことは現在の日本でも確かにあります。そのような立場なのかもしれません。
確かに聖書に書かれていることは有限です。誰も書き加えたりはしません。しかし、記述があまりにシンプルなので、解釈が必要で、しかも多くのラビが行っているのです。憲法に対す判例のようなものでしょうか。ともかく、その解釈があまりに多くほぼ無限なのです。ですからオーソドックスという人たちの勉強は尽きることがないわけです。この説明を聞いて、分かったようなわからないような・・・不思議な感覚でしたが、翻って我が茶道を見ると、同じようなことが行われてきたと考えることができます。ですから、茶道の稽古も無限なのだと合点がいきました。
例えば点前。点前を分解して、それぞれに決まりを作って定義していくことは容易いことだと思います。しかし、それぞについて、様々な時代の宗匠が解釈や変更を加えてきた結果が、現在の茶道と考えるに至ったわけです。平点前一つとってもそうですし、点前のバリエーション展開についても、同じようなことが言えると思います。
だから、勉強に終わりがないのです。