小間に籠って思うこと

小間を中心に獨楽庵茶会を組み立てるようになって一年が経過しました。その間、かつて無い程小間に座り、お茶を点て続けたことになります。これは、30年の茶道人生の中で極めて異質な期間であったとも言えます。

その異質な時を経て、ある心境の変化に気づきました。綺麗に言えば、「小さきもの、か細きもの、儚きもの」が愛おしく思える心境です。そんな折、宗徧流お家元と宗徧流の美意識について話す機会がありました。

流祖・山田宗徧は17歳で玄伯宗旦に入門し、25歳で皆伝を得ました。そして、京都鳴滝の三宝寺に「四方庵」を結びます。「四方庵」は一畳台目。丸畳一畳の客座と台目畳点前座と向板によって構成される極小空間です。宗徧は結庵直後この極小空間に、東本願寺法主の琢如上人を招いています。天上人にも等しい琢如上人を極侘びの席にお招きするのは、相当の覚悟が必要だったはずです。それをあえて成し遂げたのは、宗徧の精神であったと思います。ここに宗徧流の原点があります。

お家元曰く、宗徧流の原点は一畳台目(二畳)座敷。全ての美意識はここに端を発していると。小間に立脚すれば、物事は小間の小空間にあわせて小さくなる。なるほど、宗徧流の茶巾は他流にくらべて小さい。茶杓も華奢。

それとは別に、決まりごとが少ないもの宗徧流とおもいます。なぜなら、小間に立脚しているからと考えれば納得がいきます。小間とは、空間を狭める代わりに決まり事、すなわち権威と決別するという意思表示でもあるからです。だけれど、原理原則から外れれば、それは無手勝流に堕ちいざるを得ません。

話はまわりくどくなりましたが、要は小間でお茶を練り続けていると、自分の美意識に変化が生じたというお話です。

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