茶道宗徧流義士茶会で唐津へ

今週末は、福岡県唐津で宗徧流義士茶会です。流祖山田宗徧が赤穂義士討入に際し、吉良家、浅野家双方に深く関わっていたことから、両家の慰霊のために開催する茶会で、八世宗有宗匠の時代から行われている伝統ある茶会です。従来は宗家主催でしたが、門人会発足とともに門人会主催となり、地区持ち回りで開催しています。金沢での開催の後、コロナ禍で中断していましたが、一昨年に東京で復活。昨年は静岡。今年は唐津での開催です。日本全国から観光も兼ねて多くの門人が集う茶会になりました。

赤穂浪士討入の日、吉良邸では茶会(茶事)が行われていたことはあまり知られていません。正客は武蔵国岩槻藩主、小笠原長重公です。小笠原家は、この直前に三河国吉田藩から岩槻藩に転封されています。三州吉田藩といえば、山田宗徧が四十年以上茶頭として仕えた小笠原家です。その当主が吉良邸の茶会の正客でした。宗徧も相伴したことでしょう。物語では、赤穂浪士の一人、町人に扮して山田宗徧に弟子入りした大高言語に、義士の忠義の心に感心した宗徧が吉良公在宅の日取を教えたということになっていますが、これは怪しいです。宗徧から情報が伝わったことは事実かもしれませんが、その日は宗徧にとってかつての主君・小笠原長重公が吉良邸の茶会に参じているので、一歩間違えば主君を危険にさらすことになるからです。

ともあれ、討入は結構され赤穂浪士は本懐を遂げることができました。吉良公の首は用心のため船で品川に運ばれました。一方、赤穂浪士は床にあったと言われる桂川籠を白布に包み槍に刺して凱旋したとい割れています。その桂川籠は、利休所持で宗旦から宗徧に譲られたものです。その桂川籠、現在は香雪美術館に所蔵されています。槍を刺した跡があるとか、無いとか。これに因み、宗徧流門人はこの季節、桂川籠(流儀では「桂籠」)を使うことが多いです。これを見た他流の方は、「宗徧流では冬にも籠を?」と尋ねられますが、こちらとすれば「待ってました!」と。宗徧と討入のくだりを延々とご披露するわけです。そして花は、「白玉椿」。椿の花の散る様が切腹の介錯で首を刎ねられる様に通じるということです。討入の後、幕府のさたを待っていた四十七士と浅野家。陽成院(浅野内匠頭の妻)のもとに白玉椿が届けられ、陽成院は四十七士の切腹を知り安堵したと伝えられています。

大高源吾は俳人としても名高く、討入後、迷惑をかけた師宗徧に茶杓を送ったと言われています。銘「節なき」。筒には、「人斬れば我も死なねばなりませぬ」と。銘は「ふしなき」ですが、私んは「せつなき」に読めます。

写真は、今年の義士茶会の舞台、臨済宗の名刹・近松寺

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