一部に、能と茶道(茶席)をどちらもパフォーマンスと捉えて比較するむきがある。曰く、茶道にとって、茶室は舞台であり亭主はシテ、会記は詞章であり、客はワキであると。確かに、大寄せ茶会など茶の湯(茶事)の一部を切り出せばそうと言えなくもないが、同意し難い。
詳しい話は別の機会に譲るとして、能マニアの視点から見た茶道の点前についての考察。能の舞いは、型の組み合わせと考えることに大きな異論はないと思う。型と型を繋ぐ際にあしらいのようなものが挟まることはあるにせよ。茶の湯の点前も、型に分解することができる。道具や茶室の構えなどによって、特殊な所作が入ることはあるにせよ。
茶の湯に詳しくない方が点前を見ると、「作法が多くて大変ですね」という感想を持たれることが多いと思う。しかし、それらは「作法」ではなく、「型」なのであり、仕舞におけるサシ込ヒラキ、左右などど同じで、そこに深い意味はない。型の順番を覚えること、一つ一つの型を磨くことが稽古の本質である点で、能(仕舞)と茶道の点前は共通である。
実は訳あって、この一年間、真台子の点前に取り組んできた。一つ一つの型を磨くことの重要性を痛感した。順番は重要ではあるが、それより一つ一つの型を大事に。型はそれぞれ完結しているので、一つの型が完了するまで次の型に移らないことも重要。流れに気持ちを奪われると、ここが疎かになる。それでいて、間が大切。間は、心を一つにするためにとても重要な役割を果たしている。間が悪ければ、亭主と客、役者と観客の心は一つになり得ない。この点も両者に共通するところだと思う。