唐津に参上

明日(12月8日)の宗徧龍義士茶会に備えて唐津に到着しました。日本海を挟んで対岸は朝鮮半島。対朝鮮交易の中心となった地です。江戸時代の後半、唐津藩は小笠原家が治めました。徳川300年を通じて小笠原家の茶頭を勤めた山田家も唐津の地に在し、多くの門人を残しました。

その唐津にある臨済宗南禅寺派の古刹「近松寺」で宗徧流義士茶会が開催されます。明日は朝から、近松寺で吉良、浅野両家の法要、濃茶。移動して薄茶と一日赤穂浪士討入の故事にひたります。その晩は、宗家ご臨席の懇親会。全国から300人以上の同胞が集います。そこで、”シークレット”ですが、「鶴亀」の仕舞を勤めます。能「鶴亀」は、皇帝(玄宗皇帝といわれている)の長寿を祝う祝言曲です。宗徧流宗家の弥栄と、宗徧流の繁栄を祈って舞を奉納します。

翌日は、観光です。唐津の窯元を巡りますが、お目当ては呼子。イカ料理で有名ですが、カマスでも有名のようです。

松峰派の小唄には、「呼子の女」という曲があります。

「夕映の弁天島の瀬戸越えて 岸に大漁のかます舟 🎵舟を引き上げ船頭主は帰る 主を松浦呼子の女 磯の香りの束ね髪 解けて嬉しい 浜の松風」

夕映の呼子の風景を唄った小唄ですが、淡海節があんこに入っています。淡海とは琵琶湖のこと。漁を終えた琵琶湖の漁師が舟を浜にあげ・・・という風情です。呼子は玄界灘に面した外海です。なぜ、この唄に「淡海節」があんこに入っているのかは謎ですが、唄に夕方ののどかな浜の空気を加えています。

呼子観光では、イカ料理に没頭せず、呼子の風景を脳裏に刻んでこようと思います。

アンコという技法

小唄、そして都々逸は「あんこ」という技法を頻繁に用いる。「あんこ」とは、唄のなかに、別の有名な唄の一節を挟むことで、文字通り餡子なのであるが、それにより唄の奥行きが格段に増すのである。

「あんこ」は一種の引用で、あんことして挟まれた一節の持つ世界が聴く人の脳裏に広がり、唄の世界を広げるのである。例えば、歌い継がれた都々逸に「さんざ浮名を流したあげく、”心して我から捨てし恋なれど” 雨の降る夜は思い出す」というのがある。「さんざ浮き名を流したあげく 雨の降る夜は思い出す」では、なんでもない、単に昔の恋路を思い出しているだけであるが、ここにアンコとして”心して我より捨てし恋なれど”が入ると、新派「鶴八鶴次郎」のストーリーが加わり、この情景を実に味わい深いものに変えるのである。

新派「鶴八鶴次郎」の詳細はご自身でお調べ頂くとして、鶴八鶴次郎は悲恋の物語。だから、ここで雨の降る中思い出すのは、浮き名を流した売れっ子時代の鶴八鶴次郎のコンビであり、その後の別れである。そして、すべてを胸に納めた今、雨音のなかで静かに昔を思い出すのである。

茶道宗徧流義士茶会で唐津へ

今週末は、福岡県唐津で宗徧流義士茶会です。流祖山田宗徧が赤穂義士討入に際し、吉良家、浅野家双方に深く関わっていたことから、両家の慰霊のために開催する茶会で、八世宗有宗匠の時代から行われている伝統ある茶会です。従来は宗家主催でしたが、門人会発足とともに門人会主催となり、地区持ち回りで開催しています。金沢での開催の後、コロナ禍で中断していましたが、一昨年に東京で復活。昨年は静岡。今年は唐津での開催です。日本全国から観光も兼ねて多くの門人が集う茶会になりました。

赤穂浪士討入の日、吉良邸では茶会(茶事)が行われていたことはあまり知られていません。正客は武蔵国岩槻藩主、小笠原長重公です。小笠原家は、この直前に三河国吉田藩から岩槻藩に転封されています。三州吉田藩といえば、山田宗徧が四十年以上茶頭として仕えた小笠原家です。その当主が吉良邸の茶会の正客でした。宗徧も相伴したことでしょう。物語では、赤穂浪士の一人、町人に扮して山田宗徧に弟子入りした大高言語に、義士の忠義の心に感心した宗徧が吉良公在宅の日取を教えたということになっていますが、これは怪しいです。宗徧から情報が伝わったことは事実かもしれませんが、その日は宗徧にとってかつての主君・小笠原長重公が吉良邸の茶会に参じているので、一歩間違えば主君を危険にさらすことになるからです。

ともあれ、討入は結構され赤穂浪士は本懐を遂げることができました。吉良公の首は用心のため船で品川に運ばれました。一方、赤穂浪士は床にあったと言われる桂川籠を白布に包み槍に刺して凱旋したとい割れています。その桂川籠は、利休所持で宗旦から宗徧に譲られたものです。その桂川籠、現在は香雪美術館に所蔵されています。槍を刺した跡があるとか、無いとか。これに因み、宗徧流門人はこの季節、桂川籠(流儀では「桂籠」)を使うことが多いです。これを見た他流の方は、「宗徧流では冬にも籠を?」と尋ねられますが、こちらとすれば「待ってました!」と。宗徧と討入のくだりを延々とご披露するわけです。そして花は、「白玉椿」。椿の花の散る様が切腹の介錯で首を刎ねられる様に通じるということです。討入の後、幕府のさたを待っていた四十七士と浅野家。陽成院(浅野内匠頭の妻)のもとに白玉椿が届けられ、陽成院は四十七士の切腹を知り安堵したと伝えられています。

大高源吾は俳人としても名高く、討入後、迷惑をかけた師宗徧に茶杓を送ったと言われています。銘「節なき」。筒には、「人斬れば我も死なねばなりませぬ」と。銘は「ふしなき」ですが、私んは「せつなき」に読めます。

写真は、今年の義士茶会の舞台、臨済宗の名刹・近松寺