南禅寺

茶道のお家元の多くが大徳寺で得度を受けるのに対して、宗徧流の家元は南禅寺で得度を受けます。先代・四方斎は柴山全慶老師から、当代・幽々斎は塩澤大定老師から得度を受けています。そのようなご縁もあり、宗徧流では流祖忌法要を南禅寺でさせて頂いています。

南禅寺と大徳寺はともに臨済宗を代表する大本山です。南禅寺は、「五山の上」、大徳寺は格式のある古刹でありながら「五山」に属していません。どちらも、規格外ということです。横綱ということですね。南禅寺は亀山法王が開基であり、徳川時代には南禅寺塔頭・金地院に住する「黒衣の宰相」こと崇伝が僧録として幕府に重用され、徳川三百年の礎に貢献しました。その南禅寺(金地院)の崇伝と大徳寺の沢庵は同時代を生き、物語の世界では対比されることが多いのですが、それについてはここでは触れません。

毎年4月に行われる宗徧流全国流祖忌では、門人の代表が献茶・献炭、献花、献燈、献香を行います。なんと、来年の全国流祖忌では不祥、私が献茶をいたします。まだまだ、先のことと思っているうちに年末を迎え、南禅寺様とのうち合わせ・下見の日程も決まってしまいました。どんどん、外堀が埋められている感覚です。

献茶といっても、要は真台子、長盆の点前ですので、すらっと出来なければおかしいのですが。やはり菅長猊下はじめ山内の和尚様、お家元、御宗家、大先輩の面前での手前ですから、その緊張感たるや別次元でしょう(10年前に献炭を奉仕した時の経験から推測するに)。

私事になりますが、我が家の菩提寺は、臨済宗南禅寺派です。信徒の一人として南禅寺の法堂で献茶をご奉仕することには、格別の意義深さを感じています。今年は、派は違えど同じ臨済宗の大本山・建長寺、それも僧堂にて席主を勤めさせて頂きました。我が人生と臨済禅との関わりにとっまさにて一大事でした。残りの茶道家人生、臨済禅とともにありたいと願います。

今週末唐津で開催される義士茶会から戻ったら、真台子を引っ張り出して自主練を始めようと思います。

*南禅寺三門の写真は、今年のものではありません。

茶の湯は芸能なのか

茶の湯に関する本を読んでいると、茶の湯を舞台芸術に例える論法が少なくないことに気づく。曰く、茶室は舞台であり、亭主はパフォーマーであり、点前はパフォーマンスなのだそうだ。確かに、幾つもの道具を順序を踏まえ、複雑な所作で扱っていく点前は茶道に関わりがなければパフォーマンスに見えなくもないと思う。しかし、そうであろうか。

若い頃、点前を覚えたての頃は、大寄せの茶会で数十名のお客様の前で点前をさせて頂く時は、あたかも自分が舞台上の演者であるように感じたものであるが、その感覚も歳とともに薄れていく。そもそも、歳を重ねると大寄せの茶会で点前をする機会は減り、代わりに席主として席を仕切ったり水屋での仕事が多くなってくる。

それを差し引いても、点前=パフォーマンス 説には簡単には頷けない。大寄せ茶会を切り出してみれば、点前=パフォーマンス という要素は否定できない。が、茶の湯の現場をもう少し俯瞰して、「茶事」であったらどうであろうか。茶事の前半(初座)は懐石である。ここでは亭主は給仕に徹する。パーフォーマンスを考える余地もない。暖かい料理は暖かいうちに。冷た料理を冷たいうちに客に運ぶこと、その合間を縫って客との対話に徹する。

その延長に点前はある。一旦中立して、再び茶室に客を迎入れる(後座)。ここからは茶を喫する時間である。点前もある。しかし、前段(初座)でひたすら給仕に徹していた亭主が、いきなりパフォーマーになれる道理はない。給仕の延長である方が自然であろう。であれば、点前は美味い茶をリアルタイムに呈することに徹するべきであろう。客にことさら点前を意識させることなく、気がついていたら美味しい茶が出ていた。これが理想。空気のように点前したいものであるし、そのための稽古だと思う。

宗徧流義士茶会 山田宗徧と討入

先にも書きましたが、12月14日に宗徧流は赤穂事件(赤穂浪士による吉良邸討入)で命を落とした吉良家、浅野家双方の慰霊のため「義士茶会」を開催します。古くは家元行事として宗家で開催されていましたが、数年前から門人会主催となり、それを機に全国持ち回りで開催することになりました。一昨年は、東京で。昨年は静岡の開催でした。今年は、宗徧流の故郷の一つである九州・唐津です。私も前日から唐津入りし義士茶会後の懇親会では、「鶴亀」の仕舞を勤めることになっています。

山田宗徧は元禄11年、70歳の時に三州小笠原家の茶頭を辞し、家督を娘婿の宗引に譲り、江戸に下向。本所に結庵します。その場所は、討入の舞台となった吉良家下屋敷と目と鼻の先です。物語では、身分を偽って宗徧に入門した大高源吾に、吉良公が在宅する日(つまり12月14日)を教えたということになっています。

しかし、私がこの話は疑わしいと思っています。宗徧が討入の日、吉良家にいたことは事実だと思います。何故なら、討入の日、吉良家では茶会(今で言えば茶事)が行われており、その正客は武蔵国岩槻藩主・小笠原長重公だったからです。小笠原家は元禄10年に岩槻に転封していますが、それまでは三河国吉田藩主だったのです。そして、その所領の隣の藩主は吉良家でした。ですから、その日の吉良邸での茶会は、小笠原長重公と吉良義央公が旧交を温める席であったのです。その席に、江戸にしかも吉良邸とは目と鼻の先に在する山田宗徧が呼ばれないはずはありません。ですから、宗徧は12月14日、吉良邸で大事な茶会があることを知っていたのは事実でしょう。

しかし、それを大高言語に意図的に教えたかとなると、それは疑問です。なぜなら、討入のタイミングによっては、かつての主君(小笠原長重公)が危険にさらされるのですから。ですから、12月14日の大事な茶会情報が宗徧から大高言語に流れたのは事実かもしれませんが、意図的であったとは思えません。ですが、これが重要な情報となり、赤穂浪士は12月14日に討ち入りを決行、見事本懐を遂げるわけです。ともあれ、これにより宗徧は赤穂浪士側からは重要な協力者として扱われることになり、それが「義士茶会」の起源につながるのです。

画像は、静岡新聞に掲載された、昨年の義士茶会の風景。