紅葉

今日は、朝から市営コートでテニススクールでした。午前、午後の2クラスに参加し課題を整理することができました。月曜日は、市内の都立高校のコートを借りてたっぷり4時間ダブルスと楽しみましたが、バックハンドストロークがどうにも厚く当たらず、チャンスボールも決めることができず苦杯を舐めました。

今日は早速コーチに頼んでバックハンドストロークを見てもらいました。原因はボールとの距離が近すぎることのようです。近い距離で打ち続けていたため、テイクバックでの腕とラケットの角度をリリースしないままヒットしていたようです。今日一日では修正はできませんでしたが、課題がわかればなんとかなるはずです。

クラスの合間に、公園のベンチで軽くランチしましたが、コート脇の楓?が見事に色づいていました。獨楽庵の紅葉、楓はまだ色づく気配がありません。今週から気温はぐっと下がるようですから、獨楽庵の木々が色づくのも時間の問題だと思います。

松峰小唄 「雪あかり」

「最果ての 今宵別れていつ会えるやら 尽きぬ名残を一夜妻 帯も十勝にこのまま根室 灯をを消して 足袋脱ぐ人に 雪明かり」

歌人・石川啄木が最果ての釧路の停車場に降り立ったのは、明治41年(1908)1月21日。この時の心情を読んだ歌に「さいはての 駅に降り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りけり」がある。北海道新聞社の前身である釧路新聞社の記者として釧路に入った啄木は、この地に76日間滞在した。

その間、三人の女性と激しい恋に落ちたと言われる。この小唄は、その啄木が釧路を立つ4月5日の前夜の情景なのかもしれない。激しい恋をした啄木も、今宵ばかりはしっとりと最後の夜を過ごしたのだろう。「帯も十勝」は「帯も解かじ」である。帯も解かずに、このまま根室(眠ろう)。静かさ故に激しい恋の炎を感じさせる。小田将人作詞、松峰照作曲(昭和45年)小唄松峰派、代表曲の一つである。

江戸小唄では、一般に古曲を扱う。明治から大正にかけて作られた唄が多く、その時代を唄った楽曲もあるが、江戸時代の庶民の心情を唄ったものが大半である。確かに、江戸情緒に浸るのも悪くない。しかし、唄に容易く共感を覚えることはできない。松峰小唄は、まさに現代の唄であり、我々、特に昭和世代には胸に刺さる楽曲も多い。この「雪あかり」は三味線もドラマチックであり、新曲を得意とする松峰派ならではの名曲だと思う。

もう少しすると、この曲にぴったりの陽気になりますなあ。

SATURDAY NIGHT ZOMBIES

ユーミンの松任谷由実としての19枚目のアルバム『ダイヤモンダストが消えぬ間に』(1987年)からシングルカットされた一曲。数年前に、手元のCDは全てパソコンでデジタイズして、AppleのiTunesに保管し、日常はそれらをランダムで再生して楽しんでいる。今日、いつもの酒場で飲んだあと雨の中を歩いているとこの曲がイヤホンから流れた。

“紅いマニュキア滴るくちびる うなじ抱いてdance, dance, dance 今がchance, chance, chanceかぶりついたら とろけるようにあなたも仲間よ ぬけられないfantango 夜ごと touch-and-go 疼いてさまよう 留守番電話にはSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる めくめるZombie’s NIght

満員電車 汚れたワイシャツ あれは夢よdance, dance, dance 今がromance, chance, chance 本当のあなたよ BMWの箒でSaturday Night 街のそら飛びドアを蹴って おいでよパーティへ 狼になってもSaturday Night 驚く人は誰もいない 盛り上がれZombie’s Night
Saturday Night 死人も生き返るSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる・・・”

1987年といえば、バブルの頂点。その空気感を実に見事に表した曲だと思う。当時「社畜」という言葉があったかどうか定かではないが、月曜日から金曜日は残業の連続。まさにゾンビ。そこからの土曜日の”斜に構えた”高揚感。大いに共感できる。社畜のごとく働く様子が「汚れたワイシャツ」という一言で表現されている。しかし、その同時期の女性は「紅いマニキュアと滴るくちびる」で武装していたのか! 当時新入社員である身には記憶のかなたに、そうした図は確かにある。 さらに「BMWの箒」。当時、BMWは六本木カローラと称されていたと記憶している。猫も杓子もBMWに乗って夜の街にくりだす。まるで、魔女の箒のようだったのだろう。これも素直に共感できる。というか、もの凄い言語能力だと思う。

すでに儚くなった当時の記憶を辿ると、金曜日の夜は六本木の「墓場」の隣の店で飲んでいた気がする。いまでも「墓場」はあるのだろうか。

小唄を一言で説明

小唄にかかわってかれこれ四半世紀。これだけどっぷり浸かっていると、客観的に小唄を眺めることが難しくなってくる。初対面の、それも小唄を知らない人に、どうしたら小唄を伝えられるか。常に課題である。

「幕末に江戸で清元お葉が・・・」などど発生した経緯を話でも伝わらないだろう。「三味線で唄う、短い歌」これも甚だ疑問である。今日思いついたのは、「お座敷で芸者の三味線で旦那衆が唄う歌」。これは今までに一番伝わったような気がする。この説明をすると、相手は即座に「八王子には芸者がいるんですか?」とか「粋なんでしょうね」という反応がある。第一歩を踏み出したような気がする。

かつては、旦那のものであったかもしれないが、今は小唄人口の大半が女性であろう。そうなると「旦那衆が座敷で・・・」というのは事実に反すると言わざるを得ない。女性の小唄愛好家は眉を顰めるかもしれない。しかし、これが一番的を得ているような気もするのである。ある意味、ステレオティピカルな表現かもしれない。現実から乖離しているかもしれない。しかし、この説明がなんとなく小唄に対して持たれているイメージに近いのだろう。

実際に聴いてもらうのが一番であることは言うまでもない。しかし、いま小唄を気軽に聴こうとおもったら、各派、あるいは連盟の演奏会ということになる。こういう会は、短時間に何曲も小唄を聴くことができる。しかし、魅力は伝わらないだろう。

やはり、小唄が輝く場所は花柳界なのだと思う。

点前の見せ処

仕舞を稽古していて分かった事は、仕舞は型の連続であるということ。だから、一つの型を完了しない限り、次の型にはいけないのである。単純な事ではあるが、これは大事な原則である。翻ってお茶の点前。これも、型の連続としてとらえることができる。であれば、一つの型を完了しない限り、次の型を始めてはならないはずだ。

しかし、これがなかなか難しいのである。弟子の稽古を見ているとよく分かる。気がせくとなおさらである。宗徧流の点前の特徴として「あしらう」という所作がある。例えば、茶を掬った茶杓を茶器の蓋に戻す際、一度指を茶杓の切りどめまで滑らせる。このあしらうという所作は一つには点前が丁寧に見えるという点がある。それだけでなく、型を完結させるという意識につながる効果があると思うのである。

仕舞には「序・破・急」というリズムがある。ゆっくり始めてテンポ良く終わるということ。型の一つ一つを分解すると、一定のリズムではないのである。このリズムが動作に緊張感を与えている。お茶の点前も同じなのかもしれない。

弟子を指導していて感じる事は、リズムが悪いということ。全体を通して「ゆっくり」。これは「丁寧」という事なのかもしれないが、時に野暮に見えることがある。例えば、濃茶は茶事のメインであり、懐石や道具組などは全て一服の濃茶を美味しく頂くためのものである。だから点前は重厚であって良い。しかし、薄茶は違う。そもそも、濃茶には足らない茶葉を挽いて軽く点てるのが薄茶であるし、濃茶をいうメインが済んだ後の気楽な茶が薄茶である。であるから点前は軽やかにが良い。しかし、全てが軽くては雑に見える。だからこその、「あしらい」であり「間」なのだと思っている。

茶道界

コロナ禍を経て、茶道界も少々様変わりしたように思います。各地で大寄せの茶会が復活し、大勢のお茶人で賑わう光景を頻繁に眼にするようになりました。しかし、実態はすこし変化しているようです。

コロナ禍前は普通に思っていた、例えば三畳に十名が詰め込まれるような茶会。当時は違和感を感じつつもあたりまえと思っていましたが、コロナ禍での「ソーシャルディスタンス」を確保した上での茶席を経験すると、かつての大寄せ茶会に対する疑問が顕在化するようです。

しかし、現実的に考えるとその疑問に対する答えはなかなか難しいと思わざるをえません。現状、茶道界で行われている茶会は、数百人が一堂に会する「大寄せ」と少人数で結構な懐石が振る舞われる「茶事」のいずれかです。大寄せは気楽に参加できる反面、本来の茶の湯の楽しみからは乖離してしまうと言わざるを得ません。一方の「茶事」は茶の湯の楽しみは存分に味わえるものの、費用がかかり、また特別な会という印象拭えません。

どうにか、日常的に無理のない範囲で、茶の湯を楽しめないかと模索するなか、参考になったのは室町から江戸時代における「侘び仕立て」の茶事です。あの利休でさえ、生涯に(記録が残っている限りで)一汁三菜を超える懐石を出した茶会(茶事)は数回しかありません。紹鴎は、「珍客たりとも、会席(懐石)は一汁三菜を超えるべからず」と言っています。これに倣い、獨楽庵では一汁三菜の懐石による茶事をメインに据えています。大寄せでもなく、「茶事」でもなく。亭主としては、365日、一日3回できないと思うことはしない方針でいます。

どうか、会員の皆様は亭主の負担を気になさらずに、どんどん「獨楽庵茶会」にお申し込みください。そもそも、負担と思うことは案内しておりませんので。

巨福山建長興国禅寺 四ツ頭茶会

去る10月24日、鎌倉・建長寺の四ツ頭茶会で少林窟席を勤めました。四ツ頭茶会とは、禅林における古くからの茶の儀礼で、建長寺では開山の大覚禅師様のご命日(開山忌)に開催されます。山内では、本席である四ツ頭茶会の他、中国茶席、程茶席、薄茶席2席が開かれ、私は宗徧流関東地区を代表して、少林窟席の席主を勤めました。

建長寺は1253年、大覚國師が鎌倉5代執権・北条時頼を開基として開山。我が国最初の禅専門道場でもある日本を代表する臨済宗の古刹です。我が国初の禅専門道場である建長寺の、それも修行の中心である僧堂でのお席ですから茶人として大変名誉なことです。我が家の菩提寺は派こそ違え同じ臨済宗ですので、子供の頃から親しんだ禅宗の空気感・色彩感をもって席を作りました。

吉田正道管長猊下をはじめ多く和尚様にも席に入って頂き、臨済宗の信徒としまして感無量でした。。また、禅と茶の湯の関わりを肌で感じることができた一日でした。決められた時間内に500名のお客様をおもてなしするため、席によってはお客様に窮屈な思いをさせてしまったこともありました。また、ゆっくりお話したいところを、追い立てるように退席をお願いすることもあり、不快なおもいをさせてしまったことを痛感しております。

当日は、多くの獨楽庵友の会の皆さまにお出まし頂き声援を頂きました。お陰様で、全13席を無事に勤めることができました。心より御礼申し上げます。当日慌ただしくお話できなかっとこと、次回ご来庵の時にゆっくりお話させて頂こうと思っています。

小間に籠って思うこと

小間を中心に獨楽庵茶会を組み立てるようになって一年が経過しました。その間、かつて無い程小間に座り、お茶を点て続けたことになります。これは、30年の茶道人生の中で極めて異質な期間であったとも言えます。

その異質な時を経て、ある心境の変化に気づきました。綺麗に言えば、「小さきもの、か細きもの、儚きもの」が愛おしく思える心境です。そんな折、宗徧流お家元と宗徧流の美意識について話す機会がありました。

流祖・山田宗徧は17歳で玄伯宗旦に入門し、25歳で皆伝を得ました。そして、京都鳴滝の三宝寺に「四方庵」を結びます。「四方庵」は一畳台目。丸畳一畳の客座と台目畳点前座と向板によって構成される極小空間です。宗徧は結庵直後この極小空間に、東本願寺法主の琢如上人を招いています。天上人にも等しい琢如上人を極侘びの席にお招きするのは、相当の覚悟が必要だったはずです。それをあえて成し遂げたのは、宗徧の精神であったと思います。ここに宗徧流の原点があります。

お家元曰く、宗徧流の原点は一畳台目(二畳)座敷。全ての美意識はここに端を発していると。小間に立脚すれば、物事は小間の小空間にあわせて小さくなる。なるほど、宗徧流の茶巾は他流にくらべて小さい。茶杓も華奢。

それとは別に、決まりごとが少ないもの宗徧流とおもいます。なぜなら、小間に立脚しているからと考えれば納得がいきます。小間とは、空間を狭める代わりに決まり事、すなわち権威と決別するという意思表示でもあるからです。だけれど、原理原則から外れれば、それは無手勝流に堕ちいざるを得ません。

話はまわりくどくなりましたが、要は小間でお茶を練り続けていると、自分の美意識に変化が生じたというお話です。

東京茶道会

去る、10月13日、音羽護国寺茶寮・東京茶道会10月の会に、茶兄の席を訪ねた。先代(母君)が同じ東京茶道会で席をもたれてから22年目と仰る。母君とは、何度か茶席でご挨拶させて頂いたが、とても柔和で江戸人らしく歯切れのよい方と記憶している。

その茶兄の席であるが、道具は母君の遺品を中心に。「月」のお軸に宗徧流十世四方斎好みの白雲棚。周囲から「月に白雲はいかがなものか」という異見もあったというが、珠光の「月も雲間のなきはいやなり」を持ち出し押し切ったというあたりは、茶兄の胆力を感じる。席全体は、母君のお好みらしく調和のなかにも一つ一つの道具に楔が打ち込まれている感があり圧倒される。

極め付けは、脇床に飾られた硯。書道家であった父君の遺品に違いない。茶兄は席中では父君のことには触れられなかった。やはり、男子にとって「親」とは母親なのかと密かに思う。母君が護国寺で席をもたれた22年前、茶兄は下足番をなさっていたと仰る。お茶に興味がなかったのであろう。それが、いまでは流儀を代表して護国寺の大舞台で席を開いていらっしゃる。「つなぐ」とはこういうことかと。その「つなぐ」という言葉の真意を母君のお道具。父君の硯で表現なさっていた。とても暖かく、それでいて凛とした席。

憧れである。

SDGsに想う

いささか使い古された感のある「SDGs」。「持続可能な開発のため2030アジェンダ」として、2015年の国連サミットで採択された国際目標。17のゴールと169のターゲットから構成されている。

いつのまにか、SDGs=地球温暖化対策として偏狭に理解されるようになってしまった。いまでは、再生可能エネルギーと結びついてしまい、個人的にはネガティブワードになってしまっている。

東京八王子ロータリークラブでは、社会奉仕事業として市内の中高と連携した事業を継続している。これは端的にいうと、ラーニング バイ ギビング(Lerning by Giving)を取り入れた、社会問題を考えるワークショップである。ラーニング バイ ギビングとは、寄附行為を介して学習するという手法。

このワークショップでは、「貧困」にフォーカスしている。何故なら、SDGsの一丁目一番地は「貧困を泣くそう」 だから。ゴールはさらに「飢餓を無くそう」「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」と続く。環境問題はずっと後である。


今日は児童労働と戦うNPOがリードするセッション。地球上で労働を強いられている児童は1億6000万人以上。なんと日本の人口よりも多い。児童労働の背景は貧困である。貧困から抜け出すには教育が不可欠である。しかし、労働が優先されていては児童は教育を受けられない。まさに負の連鎖。これを断ち切ることが必要。一方で、消費者が低価格を求めることも児童労働につながる。対岸の火事ではないのである。