茶会(茶事)の魅力

先日、靖国神社で行われた宗徧流家元献茶式にて、家元と一献席で話す機会に恵まれた。話はいつしか、茶事の本質に。

一献席で振る舞われた菜と酒でいい調子になり、その時の話を完璧に覚えているわけではないが、要は「茶事の魅力は道具にあらず」。資料を読み解くと、利休?はおほ同じ道具立てで茶事を催している。それでも客が競って集うのは、茶会(茶事)の魅力が道具ではないことの証左だろう。

では何が魅力で人は利休の茶会に集うのであろうか。結論を言えば、それは利休という人物に他ならないはずである。皆、利休に会いにいくのである。もう少し正確に言えば、茶会(茶事)というフォーマットのなかで利休とコミュニケーションを図るために集まるのである。

常々後進には、「侘び茶とは、道具に頼らない茶」と話しているが、亭主の人としての魅力までは考えが及ばなかった。人としての魅力を高める。まだまだ、修行は続く。

能楽あるある

能楽に親しみのない方が、驚くことの一つは「舞台に幕がない」ということだと思う。確かに、橋掛の入り口に幕はある。しかし、初めて能楽堂に足を運ぶ人は、舞台に幕がないことにまず驚くことと思う。

能が舞われる時は、橋掛の幕が上がり囃子方が橋掛を通って舞台に向かう。同時に舞台向かって右手の切戸口があいて地謡が登場する。全員が揃ったところで、唐突に笛の一声で全てが始まる。

昨年、ロータリークラブの先輩の在籍50周年祝賀会があり、不詳私も同じ社中の後輩と組んで、仕舞を勤めた。何の前振りもなく、まずは舞台下手から黒紋付袴の私が登場して舞台定座に着席。続いて同じく黒紋付袴の後輩が舞台中央に座り。扇を捌いたら、いきなり私が謡をはじめ。後輩が立ち上がって仕舞を舞うという流れ。

その間、観衆はあっけにとられていたはずである。全てが唐突。仕舞がすんだら、締めの言葉もなくさっさと下手に下がる。あっけにとられていた証拠に、拍手がないし写真も数枚しかない。しばらくして、我々が舞台裏から客席に戻ったところで拍手喝采。

確かに、能に縁がないとこの演出には唖然とするしかないだろう(笑)

江戸川区行船公園・源心庵

朝イチで、江戸川区西葛西にある「行船公園(ぎょうせんこうえん)」を訪ねた。行船公園は、昭和8年に地元の名市・田中源氏が公園用地として東京市に寄付。その後昭和25年に江戸川区に委譲されたのを機に公園として整備されたとある。「行船」は、田中源氏の屋号とのこと。小規模ながら動物園もあり、連日親子連れで賑わっている。

その一角に「玉池」と呼ばれる池があり、その辺りに「源心庵」と呼ばれる数寄屋がある。来たる9月15日(日)には、この池のほとりで『夕月の会』という野点の茶会が催され、その添え釜として、源心庵・月の間で薄茶席を担当することになっているので、挨拶を兼ねて下見に来たわけである。

源心庵・月の間で席を持つのは今年で3回目。この席は、池に向かって広いガラス戸があるので、池をうまくつかいたいとは思う。問題なのは、床がないこと。炉も切っていないので、茶室というよりは十畳敷きの座敷である。だから、毎回床をどうするか悩みどころである。工夫して諸飾りにするか、軸だけにするか。花はどうするか。

最低限、楽しい席にしたいと思う。

公園内にある石灯篭。慶安5年(1652)、陸奥磐城城主・内藤帯刀中忠興が江戸幕府三代将軍徳川家光公へ献上したとある。