B級能鑑賞法 その2

タイトルを見ていてはたと思った。このブログは、B級の能を鑑賞する方法ではない。能鑑賞方がB級であるということ。お間違えなく。

能の観続けていたある日、閃いた。能には「テンプレート」がある。それに気づいてからは、安心して能を鑑賞できるようになった。そのテンプレートとは次のようなものである。

まず、舞台にワキが登場する。時に、田舎の侍であったりすることもあるが、概ね僧侶である。大体は、⚪︎⚪︎を見たことがないので、思い切って旅にでることにしたらしい。⚪︎⚪︎は日本全国の名所であるが、半分くらいは都である。そして、ここが重要なのであるが、「急いで旅をしたので」予定よりも早く目的の地に到着してしまうのである。到着したところは、何故かいわく因縁のある場所であるのは、お決まり。旅人が休んでいると、橋掛から怪しい人が現れる。一人であることもあるし、ペアであることもある。

その“怪しい“人物は、旅人と話を始める。その地の因縁について。その“怪しい“人が、あまりに詳しいので不審に思った旅人が「あなたは誰?」と問うと、その怪しい人はスーッと消えてしまう。ここまでが前場。入れ違いに、その土地に住む人(アイ)が現れる。旅人が、「今、このような人にあったのだが・・・」と問いかけると、その土地に住む人は大抵「そのような人は知りません。“さりながら“このような話は聞いたことがあります」ともったいぶって話を始める。その内容が、実は先ほどの怪しい人物の素性につながるのである。こうして観客は、“怪しい人物“が何者かに気づくことができる。土地の物が去ると、後場。

橋掛から“怪しい“人物の本性が現れる。大抵は、何らかの因縁によって成仏できない霊である。そして、その霊は、なぜ自分が成仏できないのかを語る(舞う)。そして旅の人(大抵は僧侶)は回向を捧げ“怪しい人“は成仏して(満足して)引き上げる。めでたし、めでたし。

もちろん、能には他の形式もある。また、現在進行形で生きている人を主人公にしたものもある。しかし、概ね半分はこのテンプレートに則っていると思う。この「水戸黄門」的な安心感は、1時間半に及ぶ能を心安く観続けるために大いに役立っている。と、思うのはまさに「B級」たる所以であろう。

B級能鑑賞法 その1

全くの成り行きというか、「交通事故」で能の稽古を始める至った経緯はすでにこのブログに書いた。とにも書くにも、1年半後には能舞台に立たなければならなかったのである。それも、能の「の」の字も知らない素人が。

神妙に稽古を続ける一方、能の雰囲気、能楽堂の雰囲気に慣れなければならないと思い至ったのはまさに天啓。能の泰斗である、白洲正子女史は「能は1000曲観ればわかる」と仰るが、1年で1000曲は到底無理。それでも100曲は観ようと、時間があれば能楽堂に足を運んだ。東京で日程が合わなければ全国各地の能楽堂にお邪魔した。結果として、一年間で百曲は観たと思う。

最初は苦痛でしかなく、能=睡眠時間であったが、途中から居眠りもせずに2時間弱に及ぶ大曲も楽しみながら観れるようになった。何故か?

それは、能の構成が分かったから。能のほぼ半数は複式夢幻能という形式をとっている。世阿弥が確立したこの形式は、複式=前場と後場の2場面で構成されている。夢幻=夢か現実か区別がつかない物語。という形式である。そして、物語にはいわゆる「テンプレート」がある。能が困難なのは、物語の先行きが読めないことに起因する部分が大きい。しかし、それが「水戸黄門」のように展開が読めたらどうだろう。「つまらない」という意見もあるが、実際には「安心して観れる」ことのメリットが大きいと思う。それは、毎回同じ構成の「水戸黄門」が何シリーズも人気を博していることからも知れる。「安心」して観れることは実は重要なのである。

その「テンプレート」とは何かは、次回に。

小唄の成立

小唄は幕末から明治を生きた清元の名手、清元お葉がその始まりと言われている。父、二代目清元延寿大夫へ、大名茶人として有名な松平不昧公が送った歌「散るはうき散らぬは沈む紅葉葉の 影は高尾か山川の水」に節をつけたのが最初の小唄と言われている。

一方、一般に小唄の祖は「端唄」と言われている。確かに、「端唄」と「小唄」両方の看板をあげているお師匠さんもいるし、同じ曲をときに「端唄」として、ときに「小唄」として歌うことはよくある。何より公益財団法人日本小唄連盟もそのように説明しているので、やはり小唄は端唄から派生したのだろう。

しかし、実際に「端唄」と「小唄」は実践者の目で見ると大きく異なる。まず、両方ともお座敷でよく演奏される。端唄は、芸者衆の踊りを伴うことが多く、歌も三味線も地方と呼ばれる芸妓が1人で演奏する。三味線は撥を使い、曲調は華やか。一方の小唄は、芸者の三味線で客(旦那衆)が唄うことが多い(少なくとも我々の現場では)。時に芸者の踊り(小唄振り)を伴うこともあるが、旦那衆同士が唄を聴かせ合うのが本道であろう。三味線は撥を使わず指で弾く。爪弾きと言われるが、実際は指の肉も使っている。当然、三味線の音量は少なく音も渋い。

小唄は基本的に糸方と唄方が分かれている。師匠だけは、弟子に唄って聞かせなければならないので三味線と唄を同時に演奏する。いわゆる弾き語りをしなければならないが、師範未満は基本的にどちらかである。これは三味線の節と唄の節が必ずしも合致していないからであり、時に早間があったり。これは、小唄が三味線を聴かせる音曲であるという説の所以である。一方、端唄の三味線は伴奏に近い。最初から弾き語りに適するようにできている気がする。

この点が、そもそも小唄と端唄の違いだと思う。小唄の師匠は日頃から稽古で弾き歌いをしているので気が付かないのかもしれないが、素人レベルで考えると、小唄の弾き語りなど人間業ではないと言わざるを得ない。三味線と唄の分業。小唄のこの特徴は、小唄は端唄よりもむしろ清元、常磐津などの語り物に近いと言えるのではないかと思う。確かに、小唄は語らない。しかし、「語るように唄え」と教えられる。やはり、小唄は端唄の変種ではなく、語り物の末裔なのではないだろうか。

写真は、(益社)日本小唄連盟のホームページから転載。