小唄のある風景

小唄はどこで聴けるのか? 意外に難しい問題です。長唄や清元、常磐津のような浄瑠璃は歌舞伎の舞台音楽(つまりBGM)なので、芝居を観に行けば聴くことができますし、演奏会もあります。端唄は、ポピュラーなので、意外に日常的に演奏されてるような気がします。

そこで、小唄。稽古場を除けば小唄が聴ける場所は、演奏会かお座敷のどちらかです。演奏会は、各流派、連盟が大きな演奏会を催しています。東京では、三越劇場が演奏会場として最も有名です。

小唄に特徴的なのは「お座敷」です。和風の座敷で会席料理が出され、和服の芸者さんがお酌をしたり話の相手をしたり、「お座敷」と言って踊りを披露してくれるアレです。お座敷では、端唄もよく唄われますが、これは芸者衆が踊りを披露する際の音曲として唄われますので基本芸者衆(地方)の担当です。それに対して、小唄は客(旦那衆)が唄います。もちろん、端唄を唄うこともありますが、物足りないと思うのです。

それは、端唄がある種の流行曲であるので、真面目に習わなくても唄える曲が多いという理由からです。要は、カラオケのようなもの。小唄は、師匠について真面目に稽古しなければとてもじゃないですが、人前で唄うことはできません。それ故、素人のお座敷芸として重みがあるのだと思っています。私の場合、小唄一曲を仕上げるのに少なくとも3、4ヶ月は要します。それでも、師匠の三味線で唄う(唄わされる)のが精一杯です。小唄の三味線は伴奏ではないので、唄は歌い手の勝手で伸びたり縮むのは日常茶飯事。三味線の名手は、唄の乱れを巧みに吸収して、さらには正調なリズムにさりげなく誘導したりできます。だから、初めての三味線弾きと合わせるのは、正にぶっつけ本番。内心冷や汗ものなのですが、それ故に上手く唄えた時の達成感は半端ないです。

その達成感は、三味線を弾く芸者も同じで、そこに客と芸者の信頼関係が出来上がります。芸を磨くものとして、共通の土台で話ができるようになるわけです。誰でも、自分と価値観を共有できると人との方が親しみやすいですよね。そういう意味で、花柳界でモテる一つの方法は、芸を磨くことです。なんでもいいのですが、できればお座敷で披露できるもの。となれば、小唄にトドメを指します。

我が街八王子には古くから花柳界があります。織物で栄えた街らしく一時は100名を超える芸妓がいたそうですが、今は20人に足らずというところでしょう。だからと言って、衰退しているとは言いません。皆、時間を惜しんで真面目に芸を磨き、そのレベルは日本屈指と言っていいと私は思います。

機会があれば、獨楽庵主催で花柳界入門イベントを開催してみたいと思っています。

茶道便蒙抄 〜 客により道具取合

宗徧流の流祖・山田宗徧は生涯に二冊の茶道指南書を著してします。その一冊、『茶道便蒙抄』には、現代に生きる我々にとっても示唆に富む記述が少なくありません。

茶道便蒙抄 第二「客により道具取合心得の事」
一、客の中 所持の道具と同然の道具亭主所持ならば其の道具は出すまじきことなり。さりながら一方 名物か拝領の道具ならば苦しからず。万事これにて心得べし。但、侘びは別格のことなり

宗徧は、客の中に亭主が所持する道具と同一のものがあれば、それを出すことは競うことになるから出してはならないと諭します。これは、道具に限らず懐石にも通じます。前回お呼ばれした際に出された料理と同一のものを出すのは、やはり競うことにつながるからです。このように「競う」を徹底的に排除するのが宗徧の教えです。確かに、自分の茶事で出した料理と同一のものを出されたら、どうしても比べてしまいますよね。そして、それは気分がいいものではありません。

ただし、その道具が拝領のものや名物であれば、その限りではないと言います。確かに、謂れのある道具は今でも別格です。客は、その謂れのある道具を見、言われを聞きたいものです。さらに、最後の一文。「侘びは別格のことなり」 侘び、すなわち手元不如意の茶人は、そんなことは言ってられないと、「救済」しています。侘び数寄は、いくつも道具を持ち合わせていないので、「競う」など考える余地もありません。そんな取り合わせの事など考えずに、手元にあるもので、精一杯のおもてなしをせよという意味だと思います。

山田宗徧は、徳川譜代の名門、小笠原家に茶頭として仕えていましたので、『茶道便蒙抄』が語りかけているのは武士です。ですが、そこに「侘び」に向けた注釈を入れているのが宗徧の矜持なのではないかと思うのです。

耳を澄ませば

こと「茶道」に関しては、巷に「茶道」を習うことのベネフィットを著した本が数多く出回っている。それらを論評したり、ましてや批判する気など毛頭ないが、少々残念に思うことも否定できない。

私自身、ひょんな切掛から「茶道」に潜り込んで早25年。その間、茶道を続けることのメリットなど考えたこともないが、続けてきてよかったということは多々ある。それは、不純な話ではあるが、女性がつく社交場に行った際に、「お客さん、お仕事は何をなさっているんですか?」との質問は定番である。ここで、「お茶の先生」と答えると相手はかなり意表を突かれるのか、「掴みはバッチリ」ということになる。こんな与太話は傍に置いておくことにして。

真面目な話。日本で生活する上での面倒なこと(ほとんどは、作法であったり仕来りであったり)について、その源流を掌握できるのは茶道を習うことの一つの大きな成果だと思う。例えば、食事のマナー。それも和食について言えば、茶道を習っていれば間違うことはほぼ無いと思う。和食は世界で唯一、器を口元に持っていくことが正しい食礼である。だから、茶道でいうところの懐石には持ち上げられないような大きな器は使わない。しかし、大きな器も時にはある。この場合、料理を箸で摘んで口に運ばなければならない。まさか口を下に置いた器に近づけることは無いだろう。その道中、汁が垂れないか気が気ではないことはわかる。だから、多くの人は左手を添える。これは間違いである。なぜなら、汁が垂れた場合、その垂れた汁を受けた左手はどうするのか?まさか、舐めるわけにもいくまい。正解は、「懐紙」を添える。「懐紙」とは茶道を習い始めると最初に手に入れるべき「道具」である。茶道の懐石では、器を下におく場合、器から口までの道中、懐紙を添えるように徹底的に教わる。これなら、仮に汁が垂れた場合でも懐紙を捨てれば良いだけである。

「懐紙」とはその字のごとく、懐に持ち運ぶ紙の束であるが、大変便利な道具でもある。上の懐石を食する時はもとより、メモ帳にもなるし、茶席で大人数分盛られた中から自分のお菓子をとる時にも使う。口元を清めることもできるし、濃茶を飲んだ飲み口を清めるためにも使える。さらに、お金を渡すときに手元に金封がなければ最悪懐紙にはさむこともある。左様に便利な「懐紙」であるが、茶道に身を置かない限り目にすることは無いであろう。

話は大きく脱線したが、言いたかったのは、真面目くさって茶道を習うことのベネフィットなど語らない方がいいのではないかという事。所詮、お客様に給仕し、面前でお茶を点るだけのことである。しかし、「たかが茶道、されど茶道」。その意味は、自分の心に素直に耳を澄ませば聞こえてくるはずである。と、言いたかったのです。