点前の見せ処

仕舞を稽古していて分かった事は、仕舞は型の連続であるということ。だから、一つの型を完了しない限り、次の型にはいけないのである。単純な事ではあるが、これは大事な原則である。翻ってお茶の点前。これも、型の連続としてとらえることができる。であれば、一つの型を完了しない限り、次の型を始めてはならないはずだ。

しかし、これがなかなか難しいのである。弟子の稽古を見ているとよく分かる。気がせくとなおさらである。宗徧流の点前の特徴として「あしらう」という所作がある。例えば、茶を掬った茶杓を茶器の蓋に戻す際、一度指を茶杓の切りどめまで滑らせる。このあしらうという所作は一つには点前が丁寧に見えるという点がある。それだけでなく、型を完結させるという意識につながる効果があると思うのである。

仕舞には「序・破・急」というリズムがある。ゆっくり始めてテンポ良く終わるということ。型の一つ一つを分解すると、一定のリズムではないのである。このリズムが動作に緊張感を与えている。お茶の点前も同じなのかもしれない。

弟子を指導していて感じる事は、リズムが悪いということ。全体を通して「ゆっくり」。これは「丁寧」という事なのかもしれないが、時に野暮に見えることがある。例えば、濃茶は茶事のメインであり、懐石や道具組などは全て一服の濃茶を美味しく頂くためのものである。だから点前は重厚であって良い。しかし、薄茶は違う。そもそも、濃茶には足らない茶葉を挽いて軽く点てるのが薄茶であるし、濃茶をいうメインが済んだ後の気楽な茶が薄茶である。であるから点前は軽やかにが良い。しかし、全てが軽くては雑に見える。だからこその、「あしらい」であり「間」なのだと思っている。

GINZA de petit能『船弁慶』

獨楽庵での催事終了後、銀座に急ぐ。途中、軽い渋滞はあったものの開演30分前にGINZA SIX到着。今日は、林宗一郎師主催の「GINZA de Petit能」。「Petit能(プチ能)」とは週末の夕べに90分というコンパクトな時間で能を知って親しみを持ってもらいたいという企画。今回の番組は『船弁慶』。平家を滅ぼした後、頼朝に退けられた義経が弁慶と共に西国に落ち延びようとするその旅立ちを描いた曲である。観世流に限らず、超人気作の一つ。

このPetit能、90分という時間枠で、解説と演能があるのでどうしても能の部分が端折られている感があるが、それを補って余りあるのが前段の解説。能楽師はどうして揃いも揃って話が上手いのか不思議であるが、今日もその例に漏れず林宗一郎門下の能楽師3名で『船弁慶』の解説。ただ解説するだけでなく、登場人物が舞台に登場して、その人物の背景や衣装について細かに説明してもらえる。これで興味が湧かないはずはない。素晴らしい構成だと思う。しかも、この解説の部分は撮影OK。当日は多くのSNSに投稿があったことと思う。我々、茶道界の人間も学ぶべき点は多々あると思う。

演能は60分ほど。元々100分の曲を60分にまとめてあるので当然省略された部分はあるが、それを感じさせない演出は歴戦のプロならでは。役者もお囃子も地謡も一流揃い。これを仕事帰りにぷらっと楽しめる。さらに人気を博することを祈る。

能楽あるある

能楽に親しみのない方が、驚くことの一つは「舞台に幕がない」ということだと思う。確かに、橋掛の入り口に幕はある。しかし、初めて能楽堂に足を運ぶ人は、舞台に幕がないことにまず驚くことと思う。

能が舞われる時は、橋掛の幕が上がり囃子方が橋掛を通って舞台に向かう。同時に舞台向かって右手の切戸口があいて地謡が登場する。全員が揃ったところで、唐突に笛の一声で全てが始まる。

昨年、ロータリークラブの先輩の在籍50周年祝賀会があり、不詳私も同じ社中の後輩と組んで、仕舞を勤めた。何の前振りもなく、まずは舞台下手から黒紋付袴の私が登場して舞台定座に着席。続いて同じく黒紋付袴の後輩が舞台中央に座り。扇を捌いたら、いきなり私が謡をはじめ。後輩が立ち上がって仕舞を舞うという流れ。

その間、観衆はあっけにとられていたはずである。全てが唐突。仕舞がすんだら、締めの言葉もなくさっさと下手に下がる。あっけにとられていた証拠に、拍手がないし写真も数枚しかない。しばらくして、我々が舞台裏から客席に戻ったところで拍手喝采。

確かに、能に縁がないとこの演出には唖然とするしかないだろう(笑)