小唄:空や久しく

雨混じりの日が増えてきました。そろそろ梅雨入りでしょうか。
この時期になると思い出す小唄に『空や久しく』があります。明治中頃、一中節の太夫・都以中の作曲と伝えられています。

歌詞 「空や久しく雲らるる 降らるる雨も晴れやまぬ 濡れて色増す青柳の 糸のもつれが気にかかる」

節は、一中節の名手らしく、一中節、清元などの節を巧みに引用し高い評価を受けていますが、小唄作詞家・評論家の小野金次郎氏によれば、歌詞は“駄文“だそうです。私にはそうは思えないのですが・・・

前半の二節は、雨続きで晴れ間が見えない、梅雨の鬱陶しさが伝わってきます。「青柳」とは、「花柳界」を連想させますし、「青」は若さを思わせます。「色増す」というのが柳がいい色になるという意味ですが、深読みすれば「色気が増す」ということかもしれません。さらに「濡れて」ときます。「濡れて」というのは男と女のアレとしましょう。この節を意訳すれば、「あの若い芸者も、男ができたのだろうか、色気が増してきた」とでもなりましょうか。締めは「糸のもつれが気にかかる」です。「糸のもつれ」とは男女関係もつれかもしれません。

この歌詞を男の視線から見るか、女の視線から見るかで解釈が違ってくるでしょうが、女の視線で見たとすると、こんな感じに解釈できないでしょうか。女はベテランとは言わないが一本立ちした芸者。空が鬱陶しいだけでなく、心も塞ぎがちの今日この頃。というのも、あの小娘だと思っていた娘がどんどん色気を増している。男がいるに違いない。もしや、私の・・・ という三角関係。だから、糸がもつれるのでしょう。

少々色気が過ぎるでしょうか。

写真は“濡れて色増す“八王子中町の柳と黒塀

お座敷へGO

かれこれ、四半世紀前。地元の泰斗・ハーさんに誘われ小唄の世界に入って以来、師匠はかわれど稽古を続けている。現在は、小唄松峰派家元・二代目松峰照師匠の稽古場に通っている。

小唄と言っても最初は、なんだか訳が分からず、数ヶ月に一曲を仕上げ、そのうち社中の勉強会やら同じ派の勉強会などに出演するようになり、社中の相弟子だけでなく同派の諸先輩の唄を聞くようになる。2年経つ頃には、それなりに唄える曲数も増え、小唄連盟の会にも出演するようになる。舞台に立つには、完成度を高めなければならず、稽古にも熱が入る。結果として自分の持ち歌として引き出しにいれることが可能になる。

そのような世界とは別に、我が街には古くから花柳界があり諸先輩に導かれて花柳界に遊ぶ機会も増えてくる。そんな時に、小唄が役にたつことを覚えた。思えば、私を小唄に誘ったハーさんにしても、ハーさんを小唄に誘ったオーさんにしても主戦場は花柳界だった。

思えば、小唄とお座敷は実に相性がよい。芸者衆を呼んだ座敷は概ね2時間である。その中で、食事をし芸者衆の酌で酒を飲み歓談する。食事もあらかた済んだところで芸者衆が「お座敷」をつける。「お座敷をつける」というのは、芸者衆が日頃鍛錬した芸を披露するということである。つまり、三味線、歌、踊り。芸者衆がお座敷をつけた後、時間があれば「旦那衆」の時間である。お座敷も終盤であるからそれほど時間が残っているわけではない。ここで、長唄はもちろんのこと、二番、三番と続く端歌を披露するのも野暮であろう。ここは小唄か都々逸だが、都々逸はやや下ネタに偏りがちなので上品に済ませるなら小唄に尽きる。なにせ、小唄は長くても3分で済むからである。

そういうことで、小唄は座敷における旦那衆の芸として格別であると思う。一方、同じ小唄でも、前半で書いたように舞台で披露することもある。正直、これでは小唄の魅力は完全には伝わらないのではないかと思う。小唄は座敷で、芸者衆の芸のあとに、旦那衆がさらっとお茶漬けのように披露するのが本来であるとおもう。であるから、出張ってはいけない。お座敷における芸の主役はあくまで芸者衆なのである。それを旦那衆の発表会のように勘違いしてはいけない。あくまで、さらっと。芸者衆の日頃の鍛錬に敬意を表して。が、好ましく思う。

柳橋から

“柳橋から小舟で急がせ 山谷堀 土手の夜風がぞっとみに沁む衣紋坂
君を想えば あわぬ昔がましぞかし どうして今日はござんした
そういう初音を聴きにきた“

柳橋とは江戸イチの花街であり、吉原遊廓の表玄関でもある。当時の粋人は柳橋から猪牙舟で隅田川に出て、山谷堀を上り日本堤に到着。そこから衣紋坂をを登って吉原大門に向かっていたらし。

まだ春浅い陽気。柳橋でいい調子で飲んでいたら、衣紋坂に辿り着く頃にはすっかり陽も落ち、川風の冷たさが身に染みるというのである。衣紋坂を進んでいると、馴染みの遊女に見つかり、軽く嫌味も加わり「今日はどういうわけでいらっしゃた」と問い詰められる。遊女も遊女で、この男に逢いたい一心でいたところに偶然出会ったので飛び上がるほど嬉しいはずであろうが、それを隠して(隠せないだろうが)つれない素ぶり。

そんな遊女の気持ちを知ってか、知らずか、男は「そういう愚痴を聞きにきたのさ」と軽くいなす。もちろん、「愚痴」などと野暮な言葉は使わずに、「初音」と洒落るところがいかにも小唄らしい。