アンコという技法

小唄、そして都々逸は「あんこ」という技法を頻繁に用いる。「あんこ」とは、唄のなかに、別の有名な唄の一節を挟むことで、文字通り餡子なのであるが、それにより唄の奥行きが格段に増すのである。

「あんこ」は一種の引用で、あんことして挟まれた一節の持つ世界が聴く人の脳裏に広がり、唄の世界を広げるのである。例えば、歌い継がれた都々逸に「さんざ浮名を流したあげく、”心して我から捨てし恋なれど” 雨の降る夜は思い出す」というのがある。「さんざ浮き名を流したあげく 雨の降る夜は思い出す」では、なんでもない、単に昔の恋路を思い出しているだけであるが、ここにアンコとして”心して我より捨てし恋なれど”が入ると、新派「鶴八鶴次郎」のストーリーが加わり、この情景を実に味わい深いものに変えるのである。

新派「鶴八鶴次郎」の詳細はご自身でお調べ頂くとして、鶴八鶴次郎は悲恋の物語。だから、ここで雨の降る中思い出すのは、浮き名を流した売れっ子時代の鶴八鶴次郎のコンビであり、その後の別れである。そして、すべてを胸に納めた今、雨音のなかで静かに昔を思い出すのである。

小唄「水指の」

小唄の中には、お茶に関係する曲もあります。以前紹介した、江戸小唄第一号「散るは浮き」は大名茶人として有名な松平不昧公の作詞です。不昧公は、小唄のために作詞したのではなく、単純に歌を読まれたのですが。

「水指の」という曲は、そのものずばり茶室の風景を唄ったものです。


“水指の二言三言言いつのり 茶杓にあらぬ癇癪の わけ白玉の投げ入れも 思わせぶりな春雨に 茶巾しぼりの濡れ衣の 口舌(くぜつ)もいつか炭点前 主をかこいの四畳半 嬉しい首尾じゃないかいな“

掛け言葉や韻を踏む箇所がいくつか出てきます。「水指」とは「仲に水を指す」つまり、「言い争い=口舌」の場面であることを暗に示しています。「茶杓にあらぬ癇癪の」は「シャク」という韻を踏んでいます。「茶杓」に特に意味はないでしょうね。「わけ白玉の」は「訳は知らない」という掛け言葉。「投げ入れ」は、「茶の花は投げ入れ」と言われるので付け足したのでしょう。「口舌もいつか炭点前」の「炭」は「済み」ですね。「口舌(くぜつ)」というのはちょっとした言い争いのことです。ですから、いつの間にか、言い争いも(気が)すんでしまったということでしょう。最後は、艶っぽい歌詞が続きます。

女性は、まさかお茶の先生ではないでしょうが。お茶の言葉を巧みに並べて男女の仲を描いた粋な曲だと思います。

小唄をひとことで言うと

「小唄」と聞くと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。「月は朧に東山 霞む夜毎の篝火に・・・」と『祇園小唄』でしょうか、「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も・・・」の『お座敷小唄』でしょうか。はては、「さらばラバウルよまた来る日までは・・・」の『ラバウル小唄』でしょうか。

一般名詞としての「小唄」とは、文字通り「小さい」唄。つまり、短い・軽い歌という意味でしょう。ですが、このブログで再三書いている「小唄」とは違います。より正確には、「江戸小唄」というべきでしょうか。幕末に江戸で成立した三味線歌謡の一種で、江戸っ子に愛されたことからもわかるように、粋で洒脱な“小“唄です。

一般には、端唄から派生したと言われています。確かに、端唄と小唄には共通の楽曲があります。しかし、違いも多くあります。まず、同じ三味線で唄うといっても、端唄の三味線は撥を使って弾きますが、小唄は爪弾きです。三味線の節も、端唄はどちらかというと伴奏に近いのに対して、小唄は唄をあしらいつつも、唄を縫うように独特の節を奏でます。また、端唄がいわばストリートミュージックとして、流行歌が口傳で伝播したので誰が作ったか不明であるのに対して、小唄は作詞者、作曲者が特定されています。ですから、小唄が端唄から派生した説には首を傾げざるを得ません。

そこで、本題です。「小唄をひとことで言うと?」 実に難しい問題です。俗曲の柳家小菊師匠のCD『江戸のラヴソング』を拝借して、「江戸のラブソング」はどうかと思いましたが、ラブソングだけじゃないし、江戸時代に限定もしてないし・・・ なかなか答えは見つかりません。