能と旅

能の一つの形式として、複式夢幻能というものがある。前半、後半で構成されていて途中、間狂言が挟まる。そして、後半は夢か現実か。

まずワキが登場する。大抵は、田舎の僧侶である。多くの能が書かれた室町時代。国を跨いで移動することは極めて稀なことであったようである。普通の人が国界を超えて移動することは、異様なことであった。まず怪しまれる。しかし、一部の人、例えば僧侶はそこには含まれない。もう一つの例外は、白拍子である。だから、能で旅をする人は僧侶と白拍子が多い。

一度も都を見たことのない僧侶は、ある日思い立って旅に出る。そして、大抵は急いだので予定よりも早く“ある場所“についてしまう。そこで、休んでいると、怪しい人物(前シテ)が現れて、とある人物の昔話に花が咲く。あまりに詳しいの怪しんだ僧侶が、「あなたは?」と尋ねるとスーッと消えてまう。ここまでが前半。

ここでアイ(狂言)が現れる。設定は村人である。僧侶は、村人に「先ほどこれこれな人に出会ったのですが」と尋ねると、村人は「そのような人は知りません」「さりながら」とこんな話は知っていますと話始める。それは、前半で怪しい人との対話で話題に登った人物に関わる話。

狂言方が幕に消えると後半が始まり、話題の人物の霊が現れる。大抵は、思い残したことがあって成仏できないでいる。そこで、僧侶が読経し祈りを捧げると、霊は満足したのかスーッと消えていく。全ては、夢か幻か。

で、その場所は名所なのである。例えば、源平合戦の舞台となった瀬戸内には“ある場所“が多い。そして、それは例外なく名所なのである。能は旅心を刺激する広告の役割も果たしていたようである。

旅の目当ての一つとして

ある日の獨楽庵。楽山焼の茶碗から松江ときて、風流堂の「山川」の話になった。日本三大銘菓の一つ。紅白の打ち菓子で、菓銘は不昧公の「散るは浮き散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」からという。この不昧公の歌は小唄第一号にもなっていることは、このブログでも紹介したと思う。

日本三代銘菓とは、「山川」と長岡・大和屋の「越乃雪」、金沢・森八の落雁「長生殿」。菓子を知っていると、旅先での動き方も変わってくることだろう。銘菓を巡る。そんな旅も楽しそうだ。

「長生殿」と言えば、能「鶴亀」。正月元旦、不老門に現れた皇帝は民衆と共に新年を寿ぐ。すぐに鶴と亀が現れて皇帝の長寿を祝い舞を奉納する。興に乗った皇帝は月宮殿で自らも舞い、殿上人も大いに喜び皇帝は神輿に乗って「長生殿」に帰っていく。

能といえば、名所を紹介するという役割も見逃せない。移動が自由でなかった時代、生涯に訪れることができる土地の数は限られている。人々は、謡にうたわれている名所をそれぞれに想像し楽しんだことだろう。能の舞台を巡る旅も楽しそうだ。

リアル猩々😊

今年になって、獨楽庵に来庵されるお客様が手土産にお酒をお持ちくださることが多くなりました。懐石にお酒はつきものですので、とても嬉しい陣中見舞いです。お陰様で、獨楽庵は酒が尽きることがありません。酒が尽きぬといえば、能「猩々」

『よも尽きじ。万代までの竹の葉の酒。汲めども尽きず飲めども変はらぬ。秋の夜の盃。影も傾く入江に枯れ立つ。足もとはよろよろと。弱り臥したる枕の夢の。覚むると思へば泉は其まま。尽きせぬ宿こそめでたけれ』

親孝行で有名な男、高風があるひ「揚子の市で酒を売れば家は栄える」という夢を見た。高風が揚子で酒を売るようになると店は大いに繁盛し、富を得ることができた。その高風の店に毎日やって来て酒を飲んでも顔色が変わらない男がいるので名前を尋ねると「猩々」と名乗り消えていった。そこで高風は月の美しい夜にしん陽の川のほとりに酒の壺を置いて猩々が現れるの待つと、やがて猩々が現れ友との再会を大いに喜び、酒を酌み交わす。猩々は高風の素直な心を誉めて、汲んでも酒が尽きない壺を与え消えていきます。

獨楽庵はまさに、「尽きせぬ宿」となっております。皆様に感謝。そして、「めでたけれ」。

獨楽庵亭主は、令和7年11月24日、銀座・観世能楽堂で開催されます松響会東京大会にて能・猩々のシテを勤めます。入場無料です。銀座にお越しのおりには、是非お立ち寄りくださいませ。