趣味は?と聞かれれば「茶の湯」、「能」、「小唄」と答えざるを得ない。30代で起業し、56歳でリタイア。何やら若い頃に目標を立てて一途に取り組んできたかのようなイメージを持たれるが、実際は異なる。否、全く逆。
「誘われたら断らない」をモットーに流れに身を任せてきた半生ではある。「能」もその一つ。すでに、青山・鐡仙会で「鶴亀」、セルリアン能楽堂で「橋弁慶」のシテを勤めているの、さぞかし能好きなのかと思われるが、これも成り行き任せである。
そもそも、自分と能との接点はない。1、2回連れて行かれた記憶はあるが、「罰ゲーム」以外の何物でもなかったと、うっすらと記憶している。それが、ひょんなことから「謡」を習うことになり、入門したその1週間後、京都で行われた素人社中の素謡の会に、まさに右も左もわからないまま参加。「鶴亀」のシテをひたすら大声を張り上げて謡うというよりは「叫んだ」その夜、夕食会があり二次会は宮川町へ。ここで「何か」があった(ようである)。
記憶にあるには、自分にとって唯一の能との接点である、茶道宗徧流流祖 山田宗徧作の竹花入『黒塚』である。その話をしたことは覚えている。先生の反応は、「観世では「黒塚」言わんのですわ」だった。確かに、観世流だけは他流では「黒塚」と呼ぶ人食い鬼婆の曲を「安達原」と呼ぶ。そして、翌週の稽古。「小坂さん、ええのがありますわ」「鶴亀って言うんですけどね、ほぼ座ってるだけやし。どうですか?」 なんのことだかわからないうちに、「鶴亀」のシテをすることになってしまった。
それまで能とは無縁であったが、シテとして舞台に立つのであるから、少なくとも能の能楽堂の雰囲気は理解しておかなければならない。白洲正子は「能は千回見ればわかる」とおっしゃっているが、今から1000回が無理。それでも、一年に100曲は観ようと暇を見つけては能楽堂に足を運んだ。お陰で短期間のうちに、生意気に能を語るまでになった(笑)
写真は、きっかけになった山田宗徧作竹花入 銘「黒塚」