人生初能面

今日は獨楽庵をお休みにして、銀座・観世能楽堂を訪ねした。

11月24日(月・振替休日)に銀座・観世能楽堂(GINZA SIX地下3階)で開催される。14世林喜右衛門社中の素人会『松響会』の舞台稽古でした。私は、この『松響会』で、能「猩々」のシテを勤めることになっています。能はこれまで、「鶴亀」、「橋弁慶」と2回能舞台で舞わせて頂きましたが、どちらも直面(ひためん)で素顔でした。今回、初めて能面をつけて舞うことになります。

今日は2回の舞台稽古があり、前半の稽古は面をつけずに立ち位置と、そこから見える景色の確認。後半は能面をつけて。生まれて初めてつける能面は、想像以上に視界が限られています。額の前2、3cmのところにある直径2-3cmの穴を通して見える景色が全てです。見えるのは、舞台にある4本の柱と劇場の壁くらいです。能舞台にある4本の柱は観客でいる時は不思議に思っていましたが、あれは能役者の命ずなだと理解しました。さらに、4名のお囃子のうち小鼓、大鼓だけ床几に腰かけている意味も理解できました。大小前という舞台中央を知らせる大変重要な目印だったのです。

もう一つわかったことは、視界が著しく限られていることから、自分の立ち位置を把握するために脳の処理能力の大半を持っていかれること。ここで4歩前に出て、差し込み、開き・・・などど頭で型をなぞっているようでは、成り立たないことがよくわかりました。頭が真っ白になっても、体が自然と動くように舞を身体に染み込ませておかなければならないことを痛感しました。日頃、茶道の弟子に言っていることが、そのまま我が身に返ってきた感じです。

同時に視界が限られている故の「自由」の片鱗も感じることができました。茶道の点前でも感じましたが、照明を落とし薄暗い(視界が限られる)中での点前では、自分の点前を上空から俯瞰しているような感覚を得ることがあります。今日の能面をつけての舞台稽古でもその片鱗を感じることができましたが、まだはっきりと俯瞰しているという意識はありません。

舞台まであと2ヶ月と少々。自分の舞を俯瞰できるレベルまで到達できるのか(汗)

能楽師シテ方観世流 14世林喜右衛門社中素人会 「松響会」
日時 令和7年11月24日(月・振替休日) 11時より
会場 観世能楽堂 GINZA SIX地下3階
入場料 無料 出入りも自由です。

当日、観世能楽堂にてお目にかかれれば幸甚でございます。
私の出番は番組中の最後(トリ)。夕方になると思います。

駆け出し能マニア的、茶道考

一部に、能と茶道(茶席)をどちらもパフォーマンスと捉えて比較するむきがある。曰く、茶道にとって、茶室は舞台であり亭主はシテ、会記は詞章であり、客はワキであると。確かに、大寄せ茶会など茶の湯(茶事)の一部を切り出せばそうと言えなくもないが、同意し難い。

詳しい話は別の機会に譲るとして、能マニアの視点から見た茶道の点前についての考察。能の舞いは、型の組み合わせと考えることに大きな異論はないと思う。型と型を繋ぐ際にあしらいのようなものが挟まることはあるにせよ。茶の湯の点前も、型に分解することができる。道具や茶室の構えなどによって、特殊な所作が入ることはあるにせよ。

茶の湯に詳しくない方が点前を見ると、「作法が多くて大変ですね」という感想を持たれることが多いと思う。しかし、それらは「作法」ではなく、「型」なのであり、仕舞におけるサシ込ヒラキ、左右などど同じで、そこに深い意味はない。型の順番を覚えること、一つ一つの型を磨くことが稽古の本質である点で、能(仕舞)と茶道の点前は共通である。

実は訳あって、この一年間、真台子の点前に取り組んできた。一つ一つの型を磨くことの重要性を痛感した。順番は重要ではあるが、それより一つ一つの型を大事に。型はそれぞれ完結しているので、一つの型が完了するまで次の型に移らないことも重要。流れに気持ちを奪われると、ここが疎かになる。それでいて、間が大切。間は、心を一つにするためにとても重要な役割を果たしている。間が悪ければ、亭主と客、役者と観客の心は一つになり得ない。この点も両者に共通するところだと思う。

能と旅

能の一つの形式として、複式夢幻能というものがある。前半、後半で構成されていて途中、間狂言が挟まる。そして、後半は夢か現実か。

まずワキが登場する。大抵は、田舎の僧侶である。多くの能が書かれた室町時代。国を跨いで移動することは極めて稀なことであったようである。普通の人が国界を超えて移動することは、異様なことであった。まず怪しまれる。しかし、一部の人、例えば僧侶はそこには含まれない。もう一つの例外は、白拍子である。だから、能で旅をする人は僧侶と白拍子が多い。

一度も都を見たことのない僧侶は、ある日思い立って旅に出る。そして、大抵は急いだので予定よりも早く“ある場所“についてしまう。そこで、休んでいると、怪しい人物(前シテ)が現れて、とある人物の昔話に花が咲く。あまりに詳しいの怪しんだ僧侶が、「あなたは?」と尋ねるとスーッと消えてまう。ここまでが前半。

ここでアイ(狂言)が現れる。設定は村人である。僧侶は、村人に「先ほどこれこれな人に出会ったのですが」と尋ねると、村人は「そのような人は知りません」「さりながら」とこんな話は知っていますと話始める。それは、前半で怪しい人との対話で話題に登った人物に関わる話。

狂言方が幕に消えると後半が始まり、話題の人物の霊が現れる。大抵は、思い残したことがあって成仏できないでいる。そこで、僧侶が読経し祈りを捧げると、霊は満足したのかスーッと消えていく。全ては、夢か幻か。

で、その場所は名所なのである。例えば、源平合戦の舞台となった瀬戸内には“ある場所“が多い。そして、それは例外なく名所なのである。能は旅心を刺激する広告の役割も果たしていたようである。