忠度

能で最も好きな曲は何か?と問われると、難しい。しかし、最も好きなキャラクター(シテ)は誰かと問われれば、平忠度と即答できる。

薩摩守平忠度は、平忠盛の六男にして、平清盛の異母弟である。母は藤原為忠の娘。藤原為忠は、歌人として有名で新古今和歌集などにも入集している。その血を引いた平忠度も歌に優れまさに文武両道を極めた武将である。千載集には「漣や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」が撰ばれたが、「朝敵」とされたことから「読み人知らず」として掲載されている。これが、「忠度」の妄執となるわけであり、それを題材に、「忠度」と「俊成忠度」という二曲が書かれている。

平忠度は、一ノ谷の戦いで、源氏方の武将・岡部六太忠澄に討たれるのであるが、その最後があまりに印象的。忠度は、右腕を切り落とされながらも、左腕で相手を投げ倒しなおも戦おうとしますが、哀れ討たれてしまいます。その忠度の甲冑の箙に結び付けられていた一首「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵の主なるまし」が、能のテーマとなっている。

自らの歌が撰ばれながらも朝敵なるが故に「読み人知らず」して載せられたことが妄執となり成仏できない。歌人として名を残そうとする”文”の忠度。合戦において、退散しようとするなか名乗りをあげられて戦に戻る。武士としての名を重んじる”武”の忠度。最後は、右腕を切り落とされながらも果敢に戦おうとする”武”。まさに、文武両道の極み。

源平合戦。判官贔屓といわれようと、滅びる平家には美しい武将が少なくない。

仕舞と点前

茶道はかれこれ25年、能(仕舞)は6年ほど稽古している。といっても、能は入門していらい舞台でのシテを課題に稽古してきたという変り種なので、本格的な仕舞の稽古は限られている。『橋弁慶』はほぼほぼチャンバラであるが、『鶴亀』では、かの素人泣かせの「楽」があるし、後半は舞もある。現在は、来年の舞台に向けて『猩々』のシテを稽古中である。『猩々』には中之舞がある。

ということで、入門して以来、初めて仕舞を稽古している訳であるが、そんな身でも薄々感じることがある(☜今頃気がついたのか!という声も聞こえるが) 仕舞は「形」の組み合わせなのだということ。実際に、いくつの「形」があるのかは知る由もないが、ともかく仕舞は「形」の組み合わせでできている。もちろん、曲ごとに特殊な「形」や変形はあるが。

そう思うと、お茶の点前も「形」の組み合わせで説明ができるのではないかという気がしてきた。確かに、宗徧流のお家元は常々、点前上達のコツは「割稽古」と仰っている。割稽古とは点前中の動きを取り出して徹底的に体に染み込ませる稽古方法である。これを突き詰めていけは、点前は「形」の組み合わせとして説明できるのではないかと思った次第。

例えば、薄茶点前はこのように表現できよう
①「一服差し上げます」の挨拶
② 両器の持ち方
③ 点前畳への進み方(歩き方+点前畳への入り方)
④ 両器の置き合わせ(座り方)
⑤ 立ち上がり、客付き回り(立ち方+客付き回り)
⑥ 水屋への進み方 (歩き方+水屋への入り方)
⑦ 建水、柄杓、蓋置の持ち方 云々・・・

遅まきながら、「形」を通じた仕舞と点前の共通点の考察でした。

B級能鑑賞法 その2

タイトルを見ていてはたと思った。このブログは、B級の能を鑑賞する方法ではない。能鑑賞方がB級であるということ。お間違えなく。

能の観続けていたある日、閃いた。能には「テンプレート」がある。それに気づいてからは、安心して能を鑑賞できるようになった。そのテンプレートとは次のようなものである。

まず、舞台にワキが登場する。時に、田舎の侍であったりすることもあるが、概ね僧侶である。大体は、⚪︎⚪︎を見たことがないので、思い切って旅にでることにしたらしい。⚪︎⚪︎は日本全国の名所であるが、半分くらいは都である。そして、ここが重要なのであるが、「急いで旅をしたので」予定よりも早く目的の地に到着してしまうのである。到着したところは、何故かいわく因縁のある場所であるのは、お決まり。旅人が休んでいると、橋掛から怪しい人が現れる。一人であることもあるし、ペアであることもある。

その“怪しい“人物は、旅人と話を始める。その地の因縁について。その“怪しい“人が、あまりに詳しいので不審に思った旅人が「あなたは誰?」と問うと、その怪しい人はスーッと消えてしまう。ここまでが前場。入れ違いに、その土地に住む人(アイ)が現れる。旅人が、「今、このような人にあったのだが・・・」と問いかけると、その土地に住む人は大抵「そのような人は知りません。“さりながら“このような話は聞いたことがあります」ともったいぶって話を始める。その内容が、実は先ほどの怪しい人物の素性につながるのである。こうして観客は、“怪しい人物“が何者かに気づくことができる。土地の物が去ると、後場。

橋掛から“怪しい“人物の本性が現れる。大抵は、何らかの因縁によって成仏できない霊である。そして、その霊は、なぜ自分が成仏できないのかを語る(舞う)。そして旅の人(大抵は僧侶)は回向を捧げ“怪しい人“は成仏して(満足して)引き上げる。めでたし、めでたし。

もちろん、能には他の形式もある。また、現在進行形で生きている人を主人公にしたものもある。しかし、概ね半分はこのテンプレートに則っていると思う。この「水戸黄門」的な安心感は、1時間半に及ぶ能を心安く観続けるために大いに役立っている。と、思うのはまさに「B級」たる所以であろう。