住吉大社

茶道具には大阪の住吉大社を題材にした「住吉蒔絵」は少なくなく、私も輪島塗師・茶平一斎造の住吉蒔絵平棗を愛用している。松、橋、鳥居、社がお決まりである。

先のブログで触れた「まくらことば」ではないが、「住吉」にもそのような由来はある。私たち能楽愛好家にとって「住吉」とは、能「高砂」なのである。九州阿蘇神社神主の友成は、都にのぼる途上、高砂の浦に立ち寄る。そこで、松の木のもとを掃き清める老夫婦と出会う。話をしているうちに、老夫婦は我々は相生と住吉の松であると、「相生の松」の謂れを話します。「相生なのに、なぜ高砂と住吉に分かれているのですか」と問うと、「住吉で会いましょう」とスーッと消えてしまう。

意を決した友成は、船を出して住吉(大阪の住吉大社)に向かうのであるが、この場面で謡割れるのが、かの有名な「高砂やこの浦船に浦をあげて」の一節なのである。結婚式のお祝いで奉納されることが多いこの謡、夫婦の永遠の契りを讃えた謡。やがて、友成が住吉につくと、住吉大社の神が現れて祝福するというくだり。

であるから、我々は「住吉蒔絵」に出会ったら、能「高砂」を思い浮かべる。そして、亭主の道具選びがそれに適っていたら、大興奮!である。お茶はある意味、そういうものなのかもしれない。

点前の見せ処

仕舞を稽古していて分かった事は、仕舞は型の連続であるということ。だから、一つの型を完了しない限り、次の型にはいけないのである。単純な事ではあるが、これは大事な原則である。翻ってお茶の点前。これも、型の連続としてとらえることができる。であれば、一つの型を完了しない限り、次の型を始めてはならないはずだ。

しかし、これがなかなか難しいのである。弟子の稽古を見ているとよく分かる。気がせくとなおさらである。宗徧流の点前の特徴として「あしらう」という所作がある。例えば、茶を掬った茶杓を茶器の蓋に戻す際、一度指を茶杓の切りどめまで滑らせる。このあしらうという所作は一つには点前が丁寧に見えるという点がある。それだけでなく、型を完結させるという意識につながる効果があると思うのである。

仕舞には「序・破・急」というリズムがある。ゆっくり始めてテンポ良く終わるということ。型の一つ一つを分解すると、一定のリズムではないのである。このリズムが動作に緊張感を与えている。お茶の点前も同じなのかもしれない。

弟子を指導していて感じる事は、リズムが悪いということ。全体を通して「ゆっくり」。これは「丁寧」という事なのかもしれないが、時に野暮に見えることがある。例えば、濃茶は茶事のメインであり、懐石や道具組などは全て一服の濃茶を美味しく頂くためのものである。だから点前は重厚であって良い。しかし、薄茶は違う。そもそも、濃茶には足らない茶葉を挽いて軽く点てるのが薄茶であるし、濃茶をいうメインが済んだ後の気楽な茶が薄茶である。であるから点前は軽やかにが良い。しかし、全てが軽くては雑に見える。だからこその、「あしらい」であり「間」なのだと思っている。

茶道界

コロナ禍を経て、茶道界も少々様変わりしたように思います。各地で大寄せの茶会が復活し、大勢のお茶人で賑わう光景を頻繁に眼にするようになりました。しかし、実態はすこし変化しているようです。

コロナ禍前は普通に思っていた、例えば三畳に十名が詰め込まれるような茶会。当時は違和感を感じつつもあたりまえと思っていましたが、コロナ禍での「ソーシャルディスタンス」を確保した上での茶席を経験すると、かつての大寄せ茶会に対する疑問が顕在化するようです。

しかし、現実的に考えるとその疑問に対する答えはなかなか難しいと思わざるをえません。現状、茶道界で行われている茶会は、数百人が一堂に会する「大寄せ」と少人数で結構な懐石が振る舞われる「茶事」のいずれかです。大寄せは気楽に参加できる反面、本来の茶の湯の楽しみからは乖離してしまうと言わざるを得ません。一方の「茶事」は茶の湯の楽しみは存分に味わえるものの、費用がかかり、また特別な会という印象拭えません。

どうにか、日常的に無理のない範囲で、茶の湯を楽しめないかと模索するなか、参考になったのは室町から江戸時代における「侘び仕立て」の茶事です。あの利休でさえ、生涯に(記録が残っている限りで)一汁三菜を超える懐石を出した茶会(茶事)は数回しかありません。紹鴎は、「珍客たりとも、会席(懐石)は一汁三菜を超えるべからず」と言っています。これに倣い、獨楽庵では一汁三菜の懐石による茶事をメインに据えています。大寄せでもなく、「茶事」でもなく。亭主としては、365日、一日3回できないと思うことはしない方針でいます。

どうか、会員の皆様は亭主の負担を気になさらずに、どんどん「獨楽庵茶会」にお申し込みください。そもそも、負担と思うことは案内しておりませんので。

巨福山建長興国禅寺 四ツ頭茶会

去る10月24日、鎌倉・建長寺の四ツ頭茶会で少林窟席を勤めました。四ツ頭茶会とは、禅林における古くからの茶の儀礼で、建長寺では開山の大覚禅師様のご命日(開山忌)に開催されます。山内では、本席である四ツ頭茶会の他、中国茶席、程茶席、薄茶席2席が開かれ、私は宗徧流関東地区を代表して、少林窟席の席主を勤めました。

建長寺は1253年、大覚國師が鎌倉5代執権・北条時頼を開基として開山。我が国最初の禅専門道場でもある日本を代表する臨済宗の古刹です。我が国初の禅専門道場である建長寺の、それも修行の中心である僧堂でのお席ですから茶人として大変名誉なことです。我が家の菩提寺は派こそ違え同じ臨済宗ですので、子供の頃から親しんだ禅宗の空気感・色彩感をもって席を作りました。

吉田正道管長猊下をはじめ多く和尚様にも席に入って頂き、臨済宗の信徒としまして感無量でした。。また、禅と茶の湯の関わりを肌で感じることができた一日でした。決められた時間内に500名のお客様をおもてなしするため、席によってはお客様に窮屈な思いをさせてしまったこともありました。また、ゆっくりお話したいところを、追い立てるように退席をお願いすることもあり、不快なおもいをさせてしまったことを痛感しております。

当日は、多くの獨楽庵友の会の皆さまにお出まし頂き声援を頂きました。お陰様で、全13席を無事に勤めることができました。心より御礼申し上げます。当日慌ただしくお話できなかっとこと、次回ご来庵の時にゆっくりお話させて頂こうと思っています。

小間に籠って思うこと

小間を中心に獨楽庵茶会を組み立てるようになって一年が経過しました。その間、かつて無い程小間に座り、お茶を点て続けたことになります。これは、30年の茶道人生の中で極めて異質な期間であったとも言えます。

その異質な時を経て、ある心境の変化に気づきました。綺麗に言えば、「小さきもの、か細きもの、儚きもの」が愛おしく思える心境です。そんな折、宗徧流お家元と宗徧流の美意識について話す機会がありました。

流祖・山田宗徧は17歳で玄伯宗旦に入門し、25歳で皆伝を得ました。そして、京都鳴滝の三宝寺に「四方庵」を結びます。「四方庵」は一畳台目。丸畳一畳の客座と台目畳点前座と向板によって構成される極小空間です。宗徧は結庵直後この極小空間に、東本願寺法主の琢如上人を招いています。天上人にも等しい琢如上人を極侘びの席にお招きするのは、相当の覚悟が必要だったはずです。それをあえて成し遂げたのは、宗徧の精神であったと思います。ここに宗徧流の原点があります。

お家元曰く、宗徧流の原点は一畳台目(二畳)座敷。全ての美意識はここに端を発していると。小間に立脚すれば、物事は小間の小空間にあわせて小さくなる。なるほど、宗徧流の茶巾は他流にくらべて小さい。茶杓も華奢。

それとは別に、決まりごとが少ないもの宗徧流とおもいます。なぜなら、小間に立脚しているからと考えれば納得がいきます。小間とは、空間を狭める代わりに決まり事、すなわち権威と決別するという意思表示でもあるからです。だけれど、原理原則から外れれば、それは無手勝流に堕ちいざるを得ません。

話はまわりくどくなりましたが、要は小間でお茶を練り続けていると、自分の美意識に変化が生じたというお話です。

東京茶道会

去る、10月13日、音羽護国寺茶寮・東京茶道会10月の会に、茶兄の席を訪ねた。先代(母君)が同じ東京茶道会で席をもたれてから22年目と仰る。母君とは、何度か茶席でご挨拶させて頂いたが、とても柔和で江戸人らしく歯切れのよい方と記憶している。

その茶兄の席であるが、道具は母君の遺品を中心に。「月」のお軸に宗徧流十世四方斎好みの白雲棚。周囲から「月に白雲はいかがなものか」という異見もあったというが、珠光の「月も雲間のなきはいやなり」を持ち出し押し切ったというあたりは、茶兄の胆力を感じる。席全体は、母君のお好みらしく調和のなかにも一つ一つの道具に楔が打ち込まれている感があり圧倒される。

極め付けは、脇床に飾られた硯。書道家であった父君の遺品に違いない。茶兄は席中では父君のことには触れられなかった。やはり、男子にとって「親」とは母親なのかと密かに思う。母君が護国寺で席をもたれた22年前、茶兄は下足番をなさっていたと仰る。お茶に興味がなかったのであろう。それが、いまでは流儀を代表して護国寺の大舞台で席を開いていらっしゃる。「つなぐ」とはこういうことかと。その「つなぐ」という言葉の真意を母君のお道具。父君の硯で表現なさっていた。とても暖かく、それでいて凛とした席。

憧れである。

茶道宗徧流全国審心会総会II

去る、9月29日愛知県岡崎市にて茶道宗徧流全国審心会(他流では青年部に相当)が、お家元ご列席のもと盛大に開催されたことは、すでに書いたとおり。懇親会に余興にて、小唄を一曲なんちゃって弾き語りしたことも前回書いたとおり。

実は懇親会の余興はそれに留まらず、さらなる大役が待っていたのである。この総会を企画・運営したのは中京地区・審心会の役員の皆さん。年齢が近いというと思うが、相談役に祭り上げられあれこれと相談にのっているうちに、会長さんから次々とMISSIONが。一つが小唄。もう一つは、なんと「マツケンのええじゃないかII」を舞台で踊れというほぼIMPOSSIBLE MISSION。夏頃に会長さんから練習用YouTubeのリンクが送られてきて、「お稽古しておいてください」とのこと。リンク先のYouTubeを開くと、かの「マツケンサンバ」の振付師として名高い真島茂樹さん自らダンスを解説しているではないか。時を同じくして、真島さんが本年5月に亡くなっていたことも知った。

「人使いが荒いなあ・・・」と思いつつも乗り掛かった船なので、真面目に稽古に励んだ。おかげで、本番ではなんとかメンツを保つこと(☜何のメンツじゃ)ができたが、このダンスなかなハードで2回と繰り返すことができない。愛知県豊橋市では、この「ええじゃないかII」を盆踊りで市民が踊るらしいが、「豊橋恐るべし」と心底思った。

これを舞台上で、紋付袴で踊ったのだから、会場はさぞかし盛り上がったことだろう。
ええじゃないか。

白蔵主

去る9月15日に江戸川区立行船公園内の源心庵にて開催された『夕月の会』で薄茶席を受け持った。これは、十五夜に近い日曜日に、月見の風情で野点を楽しもうという趣向の茶会で、その添え釜として池の辺りの月見台を持つ茶室で薄茶席を担当した訳である。江戸川区という完全アウェーの席であったが、多くの獨楽庵友の会の方々に来場頂き、ホームの気分で席主を勤めさせて頂いた。この場をおかりして御礼申し上げます。

その席で用いた香合は、鎌倉彫の『白蔵主』。和泉の国(大阪府南部)の少林寺塔頭耕雲庵には白蔵主と呼ばれる僧侶がいて、稲荷大明神を信仰していたという。ある時、足を失った3本足の白狐をみつけ寺に連れ帰って保護した。この白狐には霊力があり白蔵主をおおいに助けたという。白蔵主には狩猟好きな甥がいたが、白狐は白蔵主に化けて甥に殺生を禁めるのであるが、正体を見破られ罠にかけられるがなんとか逃げることに成功したという。この故事が題材となって狂言「釣狐」が書かれたのは有名である。

その白蔵主に化けた狐が題材のこの香合。どこから見てもたぬきにしか見えない。席中お客様に「何に見えますか」と尋ねたところ、ほぼ100%たぬきとのお答え。まあ、いいでしょう。月には狸なのだから。

茶会(茶事)の魅力

先日、靖国神社で行われた宗徧流家元献茶式にて、家元と一献席で話す機会に恵まれた。話はいつしか、茶事の本質に。

一献席で振る舞われた菜と酒でいい調子になり、その時の話を完璧に覚えているわけではないが、要は「茶事の魅力は道具にあらず」。資料を読み解くと、利休?はおほ同じ道具立てで茶事を催している。それでも客が競って集うのは、茶会(茶事)の魅力が道具ではないことの証左だろう。

では何が魅力で人は利休の茶会に集うのであろうか。結論を言えば、それは利休という人物に他ならないはずである。皆、利休に会いにいくのである。もう少し正確に言えば、茶会(茶事)というフォーマットのなかで利休とコミュニケーションを図るために集まるのである。

常々後進には、「侘び茶とは、道具に頼らない茶」と話しているが、亭主の人としての魅力までは考えが及ばなかった。人としての魅力を高める。まだまだ、修行は続く。

江戸川区行船公園・源心庵

朝イチで、江戸川区西葛西にある「行船公園(ぎょうせんこうえん)」を訪ねた。行船公園は、昭和8年に地元の名市・田中源氏が公園用地として東京市に寄付。その後昭和25年に江戸川区に委譲されたのを機に公園として整備されたとある。「行船」は、田中源氏の屋号とのこと。小規模ながら動物園もあり、連日親子連れで賑わっている。

その一角に「玉池」と呼ばれる池があり、その辺りに「源心庵」と呼ばれる数寄屋がある。来たる9月15日(日)には、この池のほとりで『夕月の会』という野点の茶会が催され、その添え釜として、源心庵・月の間で薄茶席を担当することになっているので、挨拶を兼ねて下見に来たわけである。

源心庵・月の間で席を持つのは今年で3回目。この席は、池に向かって広いガラス戸があるので、池をうまくつかいたいとは思う。問題なのは、床がないこと。炉も切っていないので、茶室というよりは十畳敷きの座敷である。だから、毎回床をどうするか悩みどころである。工夫して諸飾りにするか、軸だけにするか。花はどうするか。

最低限、楽しい席にしたいと思う。

公園内にある石灯篭。慶安5年(1652)、陸奥磐城城主・内藤帯刀中忠興が江戸幕府三代将軍徳川家光公へ献上したとある。