駆け出し能マニア的、茶道考

一部に、能と茶道(茶席)をどちらもパフォーマンスと捉えて比較するむきがある。曰く、茶道にとって、茶室は舞台であり亭主はシテ、会記は詞章であり、客はワキであると。確かに、大寄せ茶会など茶の湯(茶事)の一部を切り出せばそうと言えなくもないが、同意し難い。

詳しい話は別の機会に譲るとして、能マニアの視点から見た茶道の点前についての考察。能の舞いは、型の組み合わせと考えることに大きな異論はないと思う。型と型を繋ぐ際にあしらいのようなものが挟まることはあるにせよ。茶の湯の点前も、型に分解することができる。道具や茶室の構えなどによって、特殊な所作が入ることはあるにせよ。

茶の湯に詳しくない方が点前を見ると、「作法が多くて大変ですね」という感想を持たれることが多いと思う。しかし、それらは「作法」ではなく、「型」なのであり、仕舞におけるサシ込ヒラキ、左右などど同じで、そこに深い意味はない。型の順番を覚えること、一つ一つの型を磨くことが稽古の本質である点で、能(仕舞)と茶道の点前は共通である。

実は訳あって、この一年間、真台子の点前に取り組んできた。一つ一つの型を磨くことの重要性を痛感した。順番は重要ではあるが、それより一つ一つの型を大事に。型はそれぞれ完結しているので、一つの型が完了するまで次の型に移らないことも重要。流れに気持ちを奪われると、ここが疎かになる。それでいて、間が大切。間は、心を一つにするためにとても重要な役割を果たしている。間が悪ければ、亭主と客、役者と観客の心は一つになり得ない。この点も両者に共通するところだと思う。

ご飯の誘惑

春の声が聞こえ始めると、茶人は炉から五徳を取り出し釣釜を楽しみたくなります。本来、露の季節はいつ釣釜を設えても良いのですが、やはり釣釜は春が似合います。春の麗らかな日差しとゆらゆらと揺れる釜が春の気分を盛り上げてくれます。

同時に、茶事では趣向を変えて茶飯釜をしたくなるのも茶人の常。茶飯釜とはその名の通り一つの釜で飯を炊き、茶を点てる趣向です。通常の茶事では、最初に運ばれる繕に向付、汁と共に炊きたてのご飯が載せられます。茶飯釜では、そのご飯をお客様の面前で炊く訳です。

ご飯がうまく炊けることを願いながら炉に炭をつぎ、釜に白米を入れて炉に掛けます。しばらくするとグツグツとコメが煮える音がして、いい香がしてきます。釜から湯気が漏れそれが止まるる頃には香ばしい香りがしてきます。そうしたら、釜を少し火から遠ざけ蒸らします。仕上げはもう一度釜を火に近づけ「おこげ」を作ります。これで出来上がり。おこげの香ばしい香とピカピカに炊けたご飯がお目見え。

日本人としての幸福感は最高潮。茶飯釜はもともとは懐石の準備ができない時の緊急避難的な趣向だったと教わった記憶があります。ですから、茶飯釜の懐石は侘びに徹します。むしろその方が炊き立てご飯の魅力が際立つようにも思います。

四月は炉の名残。ゴールデンウイークが明ければ、風炉のシーズンの始まりです。去り行く炉を愛でながら、茶飯釜を楽しもうと思います。

旅の目当ての一つとして

ある日の獨楽庵。楽山焼の茶碗から松江ときて、風流堂の「山川」の話になった。日本三大銘菓の一つ。紅白の打ち菓子で、菓銘は不昧公の「散るは浮き散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」からという。この不昧公の歌は小唄第一号にもなっていることは、このブログでも紹介したと思う。

日本三代銘菓とは、「山川」と長岡・大和屋の「越乃雪」、金沢・森八の落雁「長生殿」。菓子を知っていると、旅先での動き方も変わってくることだろう。銘菓を巡る。そんな旅も楽しそうだ。

「長生殿」と言えば、能「鶴亀」。正月元旦、不老門に現れた皇帝は民衆と共に新年を寿ぐ。すぐに鶴と亀が現れて皇帝の長寿を祝い舞を奉納する。興に乗った皇帝は月宮殿で自らも舞い、殿上人も大いに喜び皇帝は神輿に乗って「長生殿」に帰っていく。

能といえば、名所を紹介するという役割も見逃せない。移動が自由でなかった時代、生涯に訪れることができる土地の数は限られている。人々は、謡にうたわれている名所をそれぞれに想像し楽しんだことだろう。能の舞台を巡る旅も楽しそうだ。