獨楽庵

獨楽庵のコアである、獨楽庵。大変分かりにくい文になっておりますが、二つ目の「獨楽庵」は三畳台目の茶室「獨楽庵」です。最初の「獨楽庵」は、その茶室「獨楽庵」を含む茶寮を指します。

茶室「獨楽庵」は、利休ゆかりの・・・と言う由緒のある茶室。当然、この茶室こそが茶の湯の中心となるべきです。しかし、この茶室、「右勝手(諸流では逆勝手とも)」。要は左右が逆なわけです。ですから、この茶寮を預かった私も当初はこの獨楽庵を使うことには二の足を踏んでいました。しかし、この茶室「獨楽庵」の魅力を伝えることができなければ、この茶寮を維持することも不可能であろうと、今年の正月から意を決して獨楽庵を使うようにしました。

獨楽庵は、三畳台目、向切。向切とは台目畳(点前をする畳)の客付きに炉が切られている構えです。これをなんとかモノにしようと試行錯誤の一年間でした。その中で、最も力強く後押ししてくれたのは、なんと宗徧流流祖・山田宗徧が書き残した『茶道便蒙抄』と言う本でした。その本に掲載されている置き合わせ図を頼りに、宗徧流の点前の基本を守りながら茶を立て続けることで、なんとかサマになってきたと密かに自負しております。

来年は、一歩進んで「獨楽庵」の魅力を探求し発信する年にしたいと思います。それもあって「倶楽茶会」を企画しました。濃茶、薄茶各一席のこぢんまりした“大寄せ“形式の茶会です。とは言っても、獨楽庵を使うのですから自ずと少人数になります。ですから、“小寄せ“茶会と呼んでいます。ゲストの茶道家をお招きして獨楽庵で自由に茶席を建立していただく。そこから獨楽庵の魅力が再発見されることを期待しています。

第一回は、2月16日(日)極寒の2月ですが、多くの方と獨楽庵の魅力について語り合うことができれば幸いでございます。

今年も大変お世話になりました。大晦日に、今年の出来事を思い出しながら、来年への思いを新たにしております。来年もよろしくお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。

最後になりましたが、皆様良いお年をお迎えください。

仕舞「鶴亀」

唐津で開催された茶道宗徧流義士茶会、終了後の懇親会の冒頭で仕舞「鶴亀」を披露しました。あるとき、会議で集まった3人がともに観世流を習っていることから、懇親会のサプライズで仕舞を披露しようということになりました。しかし、3人で共通する曲がないことから、観世流では最初に習う「鶴亀」をということになりました。

最初に習うと言っても、それは謡のことで、仕舞を習っているとは限りません。そこで、姉妹としては習っていないものの、能のシテを勤めたことがある私がシテとして舞うことになりました。ほぼほぼ同じといえば、そうなのですが、仕舞は舞扇を持つのに対して、能では軍配です。また、仕舞は紋付袴であるのに対して、能では能衣裳をつけます。鶴亀のシテは、皇帝で狩衣です。ですから、同じ部分を舞っていても、紋付と狩衣では型付けが異なります。まあ、そのあたりは、自主練でなんとか補いました。

で、本番ですが、まず舞台が仕舞を舞うには奥行きがないことに気づきました。まあ、これは歩幅を縮めるなどし対処するしかありません。地謡の2名(お茶では大先輩)とはぶっつけ本番でした。途中、ヤバいところもありましたが、なんとか無事に最後まで舞うことができました。失敗もありましたが、日頃から能に親しんでいる人にしか気づかれなかったと思います。これは、お茶の点前でも同じですね(笑)

「鶴亀」は皇帝(玄宗皇帝と言われている)の長寿を寿ぐひたすら目出度い曲ですが、ご宗家ご臨席の懇親会で、御宗家の弥栄と流儀の繁栄を願って、仕舞を舞えたことは宗徧流門人として忘れられない日になりました。

茶道宗徧流義士茶会で唐津へ

今週末は、福岡県唐津で宗徧流義士茶会です。流祖山田宗徧が赤穂義士討入に際し、吉良家、浅野家双方に深く関わっていたことから、両家の慰霊のために開催する茶会で、八世宗有宗匠の時代から行われている伝統ある茶会です。従来は宗家主催でしたが、門人会発足とともに門人会主催となり、地区持ち回りで開催しています。金沢での開催の後、コロナ禍で中断していましたが、一昨年に東京で復活。昨年は静岡。今年は唐津での開催です。日本全国から観光も兼ねて多くの門人が集う茶会になりました。

赤穂浪士討入の日、吉良邸では茶会(茶事)が行われていたことはあまり知られていません。正客は武蔵国岩槻藩主、小笠原長重公です。小笠原家は、この直前に三河国吉田藩から岩槻藩に転封されています。三州吉田藩といえば、山田宗徧が四十年以上茶頭として仕えた小笠原家です。その当主が吉良邸の茶会の正客でした。宗徧も相伴したことでしょう。物語では、赤穂浪士の一人、町人に扮して山田宗徧に弟子入りした大高言語に、義士の忠義の心に感心した宗徧が吉良公在宅の日取を教えたということになっていますが、これは怪しいです。宗徧から情報が伝わったことは事実かもしれませんが、その日は宗徧にとってかつての主君・小笠原長重公が吉良邸の茶会に参じているので、一歩間違えば主君を危険にさらすことになるからです。

ともあれ、討入は結構され赤穂浪士は本懐を遂げることができました。吉良公の首は用心のため船で品川に運ばれました。一方、赤穂浪士は床にあったと言われる桂川籠を白布に包み槍に刺して凱旋したとい割れています。その桂川籠は、利休所持で宗旦から宗徧に譲られたものです。その桂川籠、現在は香雪美術館に所蔵されています。槍を刺した跡があるとか、無いとか。これに因み、宗徧流門人はこの季節、桂川籠(流儀では「桂籠」)を使うことが多いです。これを見た他流の方は、「宗徧流では冬にも籠を?」と尋ねられますが、こちらとすれば「待ってました!」と。宗徧と討入のくだりを延々とご披露するわけです。そして花は、「白玉椿」。椿の花の散る様が切腹の介錯で首を刎ねられる様に通じるということです。討入の後、幕府のさたを待っていた四十七士と浅野家。陽成院(浅野内匠頭の妻)のもとに白玉椿が届けられ、陽成院は四十七士の切腹を知り安堵したと伝えられています。

大高源吾は俳人としても名高く、討入後、迷惑をかけた師宗徧に茶杓を送ったと言われています。銘「節なき」。筒には、「人斬れば我も死なねばなりませぬ」と。銘は「ふしなき」ですが、私んは「せつなき」に読めます。

写真は、今年の義士茶会の舞台、臨済宗の名刹・近松寺