茶道もしくは茶の湯

茶道あるいは茶の湯というもの(以後、面倒なので“お茶“とする)に対する興味はそれこそ千差万別。同じ流儀に所属し、一緒に稽古をしていても異なる。ここが茶道教授として指導する際の最大の問題の一つである。とは言え、ある程度のモデルを設定しないと指導がしにくいことも事実。

そこで、“お茶“に対する興味の構成要素について考えてみた。構成要素は概ね次の3つにまとめられるであろう。
 ① 点前、作法
 ② 道具、設え・室礼
 ③ おもてなし

“お茶“に対する興味は、この三要素の強弱で考えることができるのではないだろうか。茶道教授を名乗る方は、①に対する興味が一際強いのではないかと感じることは多い。一方、数寄者(すきしゃ)と呼ばれる方は②に対する興味が強いようである。茶道教授も数寄者も多かれ少なかれ、おもてなしには興味があるはずである。なぜなら、それがお茶の目的であるからだ。しかし、おもてなしに一際強い興味をお持ちの方もいらっしゃる。三要素は、どれが強いか弱いかということが重要で、どれが欠けていても“お茶“にはならないだろう。

それでは、自分はどうなのかというと、
 ① 点前、作法 ★
② 道具、設え ★★
③ おもてなし ★★★
というあたりかと思う。

準備を整え、お客様をお迎えし、懐石・抹茶をお出ししながら“お茶“の話をする。しかも一方向ではなく対話。これがことの他楽しいのが現在地。

敷居

内部にいるときずかないが、外から見ると厳然として存在するもの。「作法」。それこそが、日本の伝統への障壁になっているのではないかと考えはじめている。例えば私自身は茶道という世界に身を置いて四半世紀。今では空気のように意識の対象ではない「作法」であるが、習いはじめは違和感を感じつつも、いつの間にか意識から消えてしまっていた。それ故、茶道に馴染みのない方々からの“SOS“を見逃していたような気がする。

身につけてしまった、言い換えればこっち側の人間にとっては、空気のような意識しないものでも、作法とは何かと想像すら及ばない方々、言い換えればあっち側の人々にとっては一大事なのである。我々、“こっち側“の人間はつい「作法なんてどうでもいいんですよう」などど軽はずみに口にしてしまうが、それは解決策になるどころか、さらに障壁を強化しているのではないかと考えるようになった。“あっち側“の方々にとって「作法」は不安の根源である。であれば、不安を取り除けば障壁は下がるのではないだろうか。

「作法」はどうでもいいものではなく、「一大事」であることを肝に命じて発信を続けていきたいと思う。

釣釜

立春を過ぎ初夏にむかう季節。茶人は、釣り釜をしたがる。天井がら鎖をおろし、その鎖に釜を吊ることを釣り釜と称しているが、この時期(2月)に釜を釣ると違和感を持たれるお客様が少なくないようである。

それは、“あえて“釜を釣る“口実“に起因しているのかもしれない。曰く、「春になり、灰が上がってまいりましたので」である。11月に炉を開き、年末年始を過ぎ、三月頃になると炉中の灰の量が増える。すなわち、灰と炉縁の間の間隔が狭まるから、釜を釣る。のだそうだ。

しかし、日々炉と格闘していると、開炉から日が経つにつれて炉中の灰が増えるという現象には懐疑的にならざるを得ない。これは、恐らく炭点前をする際に灰を撒くので、それが積もって灰の量が増えると“想像“したと思えば理解できる。しかし現実は、朝一番で前日に使った炉を改めるところから始まる。炉中には前日の炭の燃え残りやにゅうが残っているはずである。まず、その部分の灰を取り上げ篩にかけるという作業がある。篩にかけた灰を戻すのだから、炉中の灰の量は変わらないはずである。日を重ねるにつれて、炉中の灰の量が増えるというのは、「点前」しか眼中になく朝イチで炉を整える作業を知らないものの盲信に思える。

加えて、釜を釣った場合、点前の初期に釜を上げ、点前の終了時に釜を下げるという所作が発生する。点前前の段階では、釜は基準点より低く釣られており、点前が始まればそれを点前にちょうど良い高さに上げる。つまり、点前前は、低く釣られているわけである。その場合、炉中の灰は少なくなければならない。なぜなら、灰の上に組まれた炭に、低く釣られた釜の底が当たってしまうからである。

言い換えれば、先の口上のように春になって灰(の上面)が上がってきましたから、釜を釣りましたというのは、論理的に成り立たないと思うのである。

色々と申しましたが、要は釜はいつ釣ってもいいのではないでしょうか。と、いう話。