点前の理想

以前に、茶の湯の点前はパフォーマンスか?ということに関するブログを書いたと思う。私の、今現在の結論は「否」である。茶事という侘びのおもてなしを俯瞰すれば、亭主は給仕を第一義としていると見える。山田宗徧の著作『茶道便蒙抄』でも、客は亭主に「自ら膳を運ぶのではなく、通い(半東)をお出しください」とことわりつつも、亭主は全ての膳を運び出すべしと言っている。給仕に徹すべしと。

この延長で考えると、後座の喫茶での亭主も少なくとも濃茶を出すまでは給仕に徹すべきなのではないかと考える。つまり、点前に集中すべし。しかし、給仕に徹する点前とパフォーマンスとしての点前は自ずと異なるはずである。

いまのところは、空気のような点前を目指している。客が気がついたら茶が点っていたというような。どこにも気負いや衒いのない、空気のような点前。これが現時点での理想である。そして、一旦茶がでたら、対話を大いに楽しみたいと思う。

茶道便蒙抄 〜 客により道具取合

宗徧流の流祖・山田宗徧は生涯に二冊の茶道指南書を著してします。その一冊、『茶道便蒙抄』には、現代に生きる我々にとっても示唆に富む記述が少なくありません。

茶道便蒙抄 第二「客により道具取合心得の事」
一、客の中 所持の道具と同然の道具亭主所持ならば其の道具は出すまじきことなり。さりながら一方 名物か拝領の道具ならば苦しからず。万事これにて心得べし。但、侘びは別格のことなり

宗徧は、客の中に亭主が所持する道具と同一のものがあれば、それを出すことは競うことになるから出してはならないと諭します。これは、道具に限らず懐石にも通じます。前回お呼ばれした際に出された料理と同一のものを出すのは、やはり競うことにつながるからです。このように「競う」を徹底的に排除するのが宗徧の教えです。確かに、自分の茶事で出した料理と同一のものを出されたら、どうしても比べてしまいますよね。そして、それは気分がいいものではありません。

ただし、その道具が拝領のものや名物であれば、その限りではないと言います。確かに、謂れのある道具は今でも別格です。客は、その謂れのある道具を見、言われを聞きたいものです。さらに、最後の一文。「侘びは別格のことなり」 侘び、すなわち手元不如意の茶人は、そんなことは言ってられないと、「救済」しています。侘び数寄は、いくつも道具を持ち合わせていないので、「競う」など考える余地もありません。そんな取り合わせの事など考えずに、手元にあるもので、精一杯のおもてなしをせよという意味だと思います。

山田宗徧は、徳川譜代の名門、小笠原家に茶頭として仕えていましたので、『茶道便蒙抄』が語りかけているのは武士です。ですが、そこに「侘び」に向けた注釈を入れているのが宗徧の矜持なのではないかと思うのです。

消防団出初式

今日は、市役所裏の河川敷で開催された消防団の出初式を見学に行きました。約1700名の消防団員が制服で整列し、一糸乱れず敬礼し態勢を整える様は見ていて清々しく、また頼もしく見えました。消防団員とは、消防署員ではなく民間人ですが、火災が発生すればポンプ車に飛び乗りいち早く現場に急行し、消火にあたってくれます。

最新の設備を擁し日頃から訓練を怠らない“プロ“の消防士だけでなく、消防団という市民レベルのいわば自衛組織があることは、日本人がいかに火災を恐れ心を配ってきたかの証左だと思います。式では、消防団の前身?である火消しの末裔による木遣、ハシゴ乗りが披露されました。少し話が逸れますが、江戸で一番人気があったのは「火消し」だったそうです。それだけ、火を恐れ火消しを頼もしく思っていたのでしょう。

電気化が進み火を見る機会が少なくなった今日、火を正しく使うということが世代を超えて伝えにくくなっています。火を頑なに恐れるのではなく、危険性を理解して正しく使う。このことを次世代に伝えることが大事と思いました。

我々、茶人は日常的に火、炭を扱っています。火を正しく使う。このことを肝に銘じて、また次世代に正しく伝えられるように日頃から気を配っていきたいと思います。