旅の目当ての一つとして

ある日の獨楽庵。楽山焼の茶碗から松江ときて、風流堂の「山川」の話になった。日本三大銘菓の一つ。紅白の打ち菓子で、菓銘は不昧公の「散るは浮き散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」からという。この不昧公の歌は小唄第一号にもなっていることは、このブログでも紹介したと思う。

日本三代銘菓とは、「山川」と長岡・大和屋の「越乃雪」、金沢・森八の落雁「長生殿」。菓子を知っていると、旅先での動き方も変わってくることだろう。銘菓を巡る。そんな旅も楽しそうだ。

「長生殿」と言えば、能「鶴亀」。正月元旦、不老門に現れた皇帝は民衆と共に新年を寿ぐ。すぐに鶴と亀が現れて皇帝の長寿を祝い舞を奉納する。興に乗った皇帝は月宮殿で自らも舞い、殿上人も大いに喜び皇帝は神輿に乗って「長生殿」に帰っていく。

能といえば、名所を紹介するという役割も見逃せない。移動が自由でなかった時代、生涯に訪れることができる土地の数は限られている。人々は、謡にうたわれている名所をそれぞれに想像し楽しんだことだろう。能の舞台を巡る旅も楽しそうだ。

茶道もしくは茶の湯

茶道あるいは茶の湯というもの(以後、面倒なので“お茶“とする)に対する興味はそれこそ千差万別。同じ流儀に所属し、一緒に稽古をしていても異なる。ここが茶道教授として指導する際の最大の問題の一つである。とは言え、ある程度のモデルを設定しないと指導がしにくいことも事実。

そこで、“お茶“に対する興味の構成要素について考えてみた。構成要素は概ね次の3つにまとめられるであろう。
 ① 点前、作法
 ② 道具、設え・室礼
 ③ おもてなし

“お茶“に対する興味は、この三要素の強弱で考えることができるのではないだろうか。茶道教授を名乗る方は、①に対する興味が一際強いのではないかと感じることは多い。一方、数寄者(すきしゃ)と呼ばれる方は②に対する興味が強いようである。茶道教授も数寄者も多かれ少なかれ、おもてなしには興味があるはずである。なぜなら、それがお茶の目的であるからだ。しかし、おもてなしに一際強い興味をお持ちの方もいらっしゃる。三要素は、どれが強いか弱いかということが重要で、どれが欠けていても“お茶“にはならないだろう。

それでは、自分はどうなのかというと、
 ① 点前、作法 ★
② 道具、設え ★★
③ おもてなし ★★★
というあたりかと思う。

準備を整え、お客様をお迎えし、懐石・抹茶をお出ししながら“お茶“の話をする。しかも一方向ではなく対話。これがことの他楽しいのが現在地。

敷居

内部にいるときずかないが、外から見ると厳然として存在するもの。「作法」。それこそが、日本の伝統への障壁になっているのではないかと考えはじめている。例えば私自身は茶道という世界に身を置いて四半世紀。今では空気のように意識の対象ではない「作法」であるが、習いはじめは違和感を感じつつも、いつの間にか意識から消えてしまっていた。それ故、茶道に馴染みのない方々からの“SOS“を見逃していたような気がする。

身につけてしまった、言い換えればこっち側の人間にとっては、空気のような意識しないものでも、作法とは何かと想像すら及ばない方々、言い換えればあっち側の人々にとっては一大事なのである。我々、“こっち側“の人間はつい「作法なんてどうでもいいんですよう」などど軽はずみに口にしてしまうが、それは解決策になるどころか、さらに障壁を強化しているのではないかと考えるようになった。“あっち側“の方々にとって「作法」は不安の根源である。であれば、不安を取り除けば障壁は下がるのではないだろうか。

「作法」はどうでもいいものではなく、「一大事」であることを肝に命じて発信を続けていきたいと思う。