茶道便蒙抄 〜 客により道具取合

宗徧流の流祖・山田宗徧は生涯に二冊の茶道指南書を著してします。その一冊、『茶道便蒙抄』には、現代に生きる我々にとっても示唆に富む記述が少なくありません。

茶道便蒙抄 第二「客により道具取合心得の事」
一、客の中 所持の道具と同然の道具亭主所持ならば其の道具は出すまじきことなり。さりながら一方 名物か拝領の道具ならば苦しからず。万事これにて心得べし。但、侘びは別格のことなり

宗徧は、客の中に亭主が所持する道具と同一のものがあれば、それを出すことは競うことになるから出してはならないと諭します。これは、道具に限らず懐石にも通じます。前回お呼ばれした際に出された料理と同一のものを出すのは、やはり競うことにつながるからです。このように「競う」を徹底的に排除するのが宗徧の教えです。確かに、自分の茶事で出した料理と同一のものを出されたら、どうしても比べてしまいますよね。そして、それは気分がいいものではありません。

ただし、その道具が拝領のものや名物であれば、その限りではないと言います。確かに、謂れのある道具は今でも別格です。客は、その謂れのある道具を見、言われを聞きたいものです。さらに、最後の一文。「侘びは別格のことなり」 侘び、すなわち手元不如意の茶人は、そんなことは言ってられないと、「救済」しています。侘び数寄は、いくつも道具を持ち合わせていないので、「競う」など考える余地もありません。そんな取り合わせの事など考えずに、手元にあるもので、精一杯のおもてなしをせよという意味だと思います。

山田宗徧は、徳川譜代の名門、小笠原家に茶頭として仕えていましたので、『茶道便蒙抄』が語りかけているのは武士です。ですが、そこに「侘び」に向けた注釈を入れているのが宗徧の矜持なのではないかと思うのです。

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消防団出初式

今日は、市役所裏の河川敷で開催された消防団の出初式を見学に行きました。約1700名の消防団員が制服で整列し、一糸乱れず敬礼し態勢を整える様は見ていて清々しく、また頼もしく見えました。消防団員とは、消防署員ではなく民間人ですが、火災が発生すればポンプ車に飛び乗りいち早く現場に急行し、消火にあたってくれます。

最新の設備を擁し日頃から訓練を怠らない“プロ“の消防士だけでなく、消防団という市民レベルのいわば自衛組織があることは、日本人がいかに火災を恐れ心を配ってきたかの証左だと思います。式では、消防団の前身?である火消しの末裔による木遣、ハシゴ乗りが披露されました。少し話が逸れますが、江戸で一番人気があったのは「火消し」だったそうです。それだけ、火を恐れ火消しを頼もしく思っていたのでしょう。

電気化が進み火を見る機会が少なくなった今日、火を正しく使うということが世代を超えて伝えにくくなっています。火を頑なに恐れるのではなく、危険性を理解して正しく使う。このことを次世代に伝えることが大事と思いました。

我々、茶人は日常的に火、炭を扱っています。火を正しく使う。このことを肝に銘じて、また次世代に正しく伝えられるように日頃から気を配っていきたいと思います。

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芸術としての書

獨楽庵では、2月18日(火)に名児耶 明先生をお招きして、講演会を開催します。大変失礼ながら、白状いたしますと、私これまでに名児耶先生の著作を手に取ったことがなく、これを機会に読み始めてみました。

一番の衝撃は書を芸術として捉えるアプローチ。これまで、書を見る機会はあっても、その書の一文字一文字、ましてや空間に目が行くことはありませんでした。頭でっかちな現代人は、どうしてもその内容、意味に注意が向いてしまいます。それは、あまりに活字に慣れてしまったからなのかもしれません。

名児耶先生は、「書は文字という記号を通して、作者の心、魂を紙面に表現できる最もシンプルな芸術」おっしゃいます。この視線は、明らかに欠けていました。茶席で一番大事なお軸を拝見しても、不埒な客は軸の読みと意味しか尋ねず、それに対する感想しか返しません。もっと書そのものを鑑賞する必要があるのではないか。その書から感じられる作者の心、魂について問答すべきではないのか。と、頭にガツンと一撃を受けた気がします。

ある時、松平不昧公の書を掛けていて、それをみた女性客は「丸文字みたい」と感想を述べられましたが、そこには書と真正面に向き合うことの片鱗があったのだと思います。

書に限らす、作者云々、来歴はそれはそれで茶席のご馳走ではありますが、もっと書は書、茶碗は茶碗として美を見出すことにも心を注ごうと思った、新春でありました。

名児耶先生の特別講演についてはこちら

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