茶の湯は芸能なのか

茶の湯に関する本を読んでいると、茶の湯を舞台芸術に例える論法が少なくないことに気づく。曰く、茶室は舞台であり、亭主はパフォーマーであり、点前はパフォーマンスなのだそうだ。確かに、幾つもの道具を順序を踏まえ、複雑な所作で扱っていく点前は茶道に関わりがなければパフォーマンスに見えなくもないと思う。しかし、そうであろうか。

若い頃、点前を覚えたての頃は、大寄せの茶会で数十名のお客様の前で点前をさせて頂く時は、あたかも自分が舞台上の演者であるように感じたものであるが、その感覚も歳とともに薄れていく。そもそも、歳を重ねると大寄せの茶会で点前をする機会は減り、代わりに席主として席を仕切ったり水屋での仕事が多くなってくる。

それを差し引いても、点前=パフォーマンス 説には簡単には頷けない。大寄せ茶会を切り出してみれば、点前=パフォーマンス という要素は否定できない。が、茶の湯の現場をもう少し俯瞰して、「茶事」であったらどうであろうか。茶事の前半(初座)は懐石である。ここでは亭主は給仕に徹する。パーフォーマンスを考える余地もない。暖かい料理は暖かいうちに。冷た料理を冷たいうちに客に運ぶこと、その合間を縫って客との対話に徹する。

その延長に点前はある。一旦中立して、再び茶室に客を迎入れる(後座)。ここからは茶を喫する時間である。点前もある。しかし、前段(初座)でひたすら給仕に徹していた亭主が、いきなりパフォーマーになれる道理はない。給仕の延長である方が自然であろう。であれば、点前は美味い茶をリアルタイムに呈することに徹するべきであろう。客にことさら点前を意識させることなく、気がついていたら美味しい茶が出ていた。これが理想。空気のように点前したいものであるし、そのための稽古だと思う。

義士茶会

年の瀬の声が聞こえ始めると、宗徧流門人はソワソワしだします。12月14日は、赤穂浪士討ち入りの日。宗徧流では、この日に合わせ討ち入りで命を落とした吉良家、浅野家双方の霊をともらうため『義士茶会』を開催します。全国レベルの義士茶会は地区の持ち回りで開催しています。今年は、九州・唐津に300名以上が集まります。その他、地区・支部または個人が全国各地で義士茶会を催します。

流祖宗徧は27歳で元伯宗旦から皆伝を受け、三洲吉田藩・小笠原家に茶頭として出仕します。70歳で家督を後継の宗引に譲り江戸に下り、江戸本所に結庵します。本所と言えば、討ち入りの舞台となった吉良邸があります。宗徧はここで討ち入りに遭遇します。宗徧には、吉良家にも赤穂浪士にも弟子がいました。これが「義士茶会」の由来です。

討ち入りを成し遂げた赤穂浪士は、吉良公の首は船で品川に送り。茶席にあったといわれる利休所縁の「桂川籠」を白布でくるみ首に見立てて品川まで行進したと言われています。その桂川籠は現在、香雪美術館に保存されています。宗徧流・義士茶会では、「桂川籠」がお決まりの一つです。

住吉大社

茶道具には大阪の住吉大社を題材にした「住吉蒔絵」は少なくなく、私も輪島塗師・茶平一斎造の住吉蒔絵平棗を愛用している。松、橋、鳥居、社がお決まりである。

先のブログで触れた「まくらことば」ではないが、「住吉」にもそのような由来はある。私たち能楽愛好家にとって「住吉」とは、能「高砂」なのである。九州阿蘇神社神主の友成は、都にのぼる途上、高砂の浦に立ち寄る。そこで、松の木のもとを掃き清める老夫婦と出会う。話をしているうちに、老夫婦は我々は相生と住吉の松であると、「相生の松」の謂れを話します。「相生なのに、なぜ高砂と住吉に分かれているのですか」と問うと、「住吉で会いましょう」とスーッと消えてしまう。

意を決した友成は、船を出して住吉(大阪の住吉大社)に向かうのであるが、この場面で謡割れるのが、かの有名な「高砂やこの浦船に浦をあげて」の一節なのである。結婚式のお祝いで奉納されることが多いこの謡、夫婦の永遠の契りを讃えた謡。やがて、友成が住吉につくと、住吉大社の神が現れて祝福するというくだり。

であるから、我々は「住吉蒔絵」に出会ったら、能「高砂」を思い浮かべる。そして、亭主の道具選びがそれに適っていたら、大興奮!である。お茶はある意味、そういうものなのかもしれない。