消防団出初式

今日は、市役所裏の河川敷で開催された消防団の出初式を見学に行きました。約1700名の消防団員が制服で整列し、一糸乱れず敬礼し態勢を整える様は見ていて清々しく、また頼もしく見えました。消防団員とは、消防署員ではなく民間人ですが、火災が発生すればポンプ車に飛び乗りいち早く現場に急行し、消火にあたってくれます。

最新の設備を擁し日頃から訓練を怠らない“プロ“の消防士だけでなく、消防団という市民レベルのいわば自衛組織があることは、日本人がいかに火災を恐れ心を配ってきたかの証左だと思います。式では、消防団の前身?である火消しの末裔による木遣、ハシゴ乗りが披露されました。少し話が逸れますが、江戸で一番人気があったのは「火消し」だったそうです。それだけ、火を恐れ火消しを頼もしく思っていたのでしょう。

電気化が進み火を見る機会が少なくなった今日、火を正しく使うということが世代を超えて伝えにくくなっています。火を頑なに恐れるのではなく、危険性を理解して正しく使う。このことを次世代に伝えることが大事と思いました。

我々、茶人は日常的に火、炭を扱っています。火を正しく使う。このことを肝に銘じて、また次世代に正しく伝えられるように日頃から気を配っていきたいと思います。

芸術としての書

獨楽庵では、2月18日(火)に名児耶 明先生をお招きして、講演会を開催します。大変失礼ながら、白状いたしますと、私これまでに名児耶先生の著作を手に取ったことがなく、これを機会に読み始めてみました。

一番の衝撃は書を芸術として捉えるアプローチ。これまで、書を見る機会はあっても、その書の一文字一文字、ましてや空間に目が行くことはありませんでした。頭でっかちな現代人は、どうしてもその内容、意味に注意が向いてしまいます。それは、あまりに活字に慣れてしまったからなのかもしれません。

名児耶先生は、「書は文字という記号を通して、作者の心、魂を紙面に表現できる最もシンプルな芸術」おっしゃいます。この視線は、明らかに欠けていました。茶席で一番大事なお軸を拝見しても、不埒な客は軸の読みと意味しか尋ねず、それに対する感想しか返しません。もっと書そのものを鑑賞する必要があるのではないか。その書から感じられる作者の心、魂について問答すべきではないのか。と、頭にガツンと一撃を受けた気がします。

ある時、松平不昧公の書を掛けていて、それをみた女性客は「丸文字みたい」と感想を述べられましたが、そこには書と真正面に向き合うことの片鱗があったのだと思います。

書に限らす、作者云々、来歴はそれはそれで茶席のご馳走ではありますが、もっと書は書、茶碗は茶碗として美を見出すことにも心を注ごうと思った、新春でありました。

名児耶先生の特別講演についてはこちら

炉中の灰の事

山田宗徧の『茶道便蒙抄』には炉中の灰の事として次のようにある。

“口切りの時 未だ世間暖かなれば灰を多く入れ 炭も大きにしてよし 炭を少し置く故なり 灰の仕様炭の寸法定まらず 大小も高下も厚薄も定まらさるようにして 堅く見えぬやうに心得べし 寒天の時は灰も少なくして 炭を多く入れるべし 炭の多少は寒暑にもより 又は釜の大小にもよるなり 心得べし“

灰の高下さ、懐の広狭、炭の大小、炭の数は「定まらぬようにして」、つまり決まりきったようにせず、陽気や釜に合わせ臨機応変に。例えば、炉の季節とはいえ暖かい時には、炭を少なく。ということは、大きな炭を使ってもよろしい。炭の大きさに決まりはないと。そのかわり、火を釜に近づける。つまり、灰を高く。逆に寒い時期には、炭の数を多く。ということは、大きい炭には拘らず、ということか。ということは、炭の置き方も杓子定規にならず、臨機応変にということか。それでいて、「堅く見えぬやうに心得べし」。

関連して、同じく山田宗徧の『茶道要録』には釣釜については次のようにある。

“鎖は老若ともに用ゆ 広席には必ず用いてよし 四方釜は必ず釣りて用ゆ 炉の五徳には据えず“

釜を釣る方法を年齢で分けているのが面白い。「鎖は老若ともに用ゆ」。鎖は年齢に関わらず使ってよろしい。それに対して自在については、後段で “壮年以後五十歳以上のもの 師たるものの免を得て用ゆ“ と、50歳以上で、しかも師匠の許しを得て使えとのこと。

写真は獨楽庵に初めて四方釜を掛けた時のものであるが、きちんと釣っていて安堵。中柱のある席には自在は用いないとの、流祖の言であるが、獨楽庵の太柱は床柱であって中柱ではないので、自在で釣っても良いようである。年齢も50歳超えているし。あとは、師匠の許しだけ。新年早々、家元にお願いしてみよう。