SATURDAY NIGHT ZOMBIES

ユーミンの松任谷由実としての19枚目のアルバム『ダイヤモンダストが消えぬ間に』(1987年)からシングルカットされた一曲。数年前に、手元のCDは全てパソコンでデジタイズして、AppleのiTunesに保管し、日常はそれらをランダムで再生して楽しんでいる。今日、いつもの酒場で飲んだあと雨の中を歩いているとこの曲がイヤホンから流れた。

“紅いマニュキア滴るくちびる うなじ抱いてdance, dance, dance 今がchance, chance, chanceかぶりついたら とろけるようにあなたも仲間よ ぬけられないfantango 夜ごと touch-and-go 疼いてさまよう 留守番電話にはSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる めくめるZombie’s NIght

満員電車 汚れたワイシャツ あれは夢よdance, dance, dance 今がromance, chance, chance 本当のあなたよ BMWの箒でSaturday Night 街のそら飛びドアを蹴って おいでよパーティへ 狼になってもSaturday Night 驚く人は誰もいない 盛り上がれZombie’s Night
Saturday Night 死人も生き返るSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる・・・”

1987年といえば、バブルの頂点。その空気感を実に見事に表した曲だと思う。当時「社畜」という言葉があったかどうか定かではないが、月曜日から金曜日は残業の連続。まさにゾンビ。そこからの土曜日の”斜に構えた”高揚感。大いに共感できる。社畜のごとく働く様子が「汚れたワイシャツ」という一言で表現されている。しかし、その同時期の女性は「紅いマニキュアと滴るくちびる」で武装していたのか! 当時新入社員である身には記憶のかなたに、そうした図は確かにある。 さらに「BMWの箒」。当時、BMWは六本木カローラと称されていたと記憶している。猫も杓子もBMWに乗って夜の街にくりだす。まるで、魔女の箒のようだったのだろう。これも素直に共感できる。というか、もの凄い言語能力だと思う。

すでに儚くなった当時の記憶を辿ると、金曜日の夜は六本木の「墓場」の隣の店で飲んでいた気がする。いまでも「墓場」はあるのだろうか。

茶道宗徧流全国審心会総会II

去る、9月29日愛知県岡崎市にて茶道宗徧流全国審心会(他流では青年部に相当)が、お家元ご列席のもと盛大に開催されたことは、すでに書いたとおり。懇親会に余興にて、小唄を一曲なんちゃって弾き語りしたことも前回書いたとおり。

実は懇親会の余興はそれに留まらず、さらなる大役が待っていたのである。この総会を企画・運営したのは中京地区・審心会の役員の皆さん。年齢が近いというと思うが、相談役に祭り上げられあれこれと相談にのっているうちに、会長さんから次々とMISSIONが。一つが小唄。もう一つは、なんと「マツケンのええじゃないかII」を舞台で踊れというほぼIMPOSSIBLE MISSION。夏頃に会長さんから練習用YouTubeのリンクが送られてきて、「お稽古しておいてください」とのこと。リンク先のYouTubeを開くと、かの「マツケンサンバ」の振付師として名高い真島茂樹さん自らダンスを解説しているではないか。時を同じくして、真島さんが本年5月に亡くなっていたことも知った。

「人使いが荒いなあ・・・」と思いつつも乗り掛かった船なので、真面目に稽古に励んだ。おかげで、本番ではなんとかメンツを保つこと(☜何のメンツじゃ)ができたが、このダンスなかなハードで2回と繰り返すことができない。愛知県豊橋市では、この「ええじゃないかII」を盆踊りで市民が踊るらしいが、「豊橋恐るべし」と心底思った。

これを舞台上で、紋付袴で踊ったのだから、会場はさぞかし盛り上がったことだろう。
ええじゃないか。

沖のかもめ

秋の勉強会に向けて、新しい曲の稽古をはじめた。『沖のかもめ』。常盤まさ来作詞、松峰照作曲(昭和56年)。松峰派代表曲の一つである。

小唄というと「江戸情緒」という言葉が直ぐ浮かぶので、どうしても江戸時代、新しくても明治という印象がある。実際、その時期に多くの曲がつくられ「古典」として愛好されている。『沖のかめもめ』は昭和56年。世はバブルの入り口。小生は、大学生で勉強そっちのけで日夜プールで格闘していた時期である。

”今宵別れりゃ何時また逢える 思いを込めてグラスを合わせ 言葉にならないさよならを むせび泣くよに流れてる 男と女の涙唄 沖のかもめに汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥波に聞け 辛い別れの夜が更ける”

”沖のかもめに汐時問えばよ・・・”の部分はいわゆるアンコであるが、節は「だんちょね節」のようである。「だんちょね」節と言えば、八代亜紀さんのヒット曲『舟唄』のアンコにも使われている。”沖のかもめに深酒させてよ いとしあの娘とよ朝寝するダンチョネ”。

小唄の方は「沖のかもめに」までは同じであるが、「深酒させてよ」ではなく「汐時問えばよ」と続く。この「汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥 波に聞け」は、ソーラン節の歌詞であるが、ダンチョネ節とソーラン節では、節も曲調もかなり違う。

要は、小唄『沖のかもめ』のアンコは、ソーラン節の歌詞をダンチョネ節の節に乗せて歌っているというところだろうか。そこで、ダンチョネ節のお決まりである、最後の「ダンチョネ」を省略しているところがミソであろう。「ダンチョネ」がなくても聴く人はダンチョネ節だとわかる。

大ヒットした八代亜紀さんの『舟唄』は、昭和54年。小唄『沖のかめも』ができたのは、2年後の昭和56年。人々の記憶に『舟唄』が生々しかった時期。アンコに考えたのは、「ダンチョネ節」ではなく『舟唄』だったのかもしれない。だから、「ダンチョネ節」の歌詞を、同じ「沖のかもめ」で始まるソーラン節に変えたのかもしれない。ダンチョネ節を直接引用したのではあまりにダイレクトすぎて、小唄の歌詞に奥行きがでない。「汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥 波に聞け」というアッサリした文句からは、別れを現実として受け入れなければならない男女のやるせない気持ちが伝わってくる。

Tears In Heaven

我が青春時代。アイドル筆頭は間違いなく、松田聖子であった。そのアンチで中森明菜も大いに人気を博していた。

その我が青春のディーバ二人が揃ってジャズのカバーアルバムをリリースしている。松田聖子は、覆面(今時で言えばステルス)で発表した“Sweet Memories”でジャズとの相性を立証しているが、対する中森明菜は絶頂期の歌声からもジャズの香りを感じていたもの。両名が揃って、ジャズという、ある意味、自分のプロフィール全編を掛けた音楽表現に踏み出したのは、ファンとしては慶賀の至りである。

両嬢とも、自分のヒット曲をカバーして、同じ熱い時を過ごしながらも今は人生の終盤に向っていることを自覚せざるを得ない身には、まさに『同級生!』という感情を抱かせる訳であるあが、中森明菜が自分の楽曲を見事に年齢通りに再表現している(それはそれで見事なのである)のであるが、やはり泣けるのは松田聖子が歌う『Tears In Heaven』である。

この曲はご承知の通り、Eric Claptonの作品で、1991年にアパートの階段から転落して死亡した当時4歳の息子コナーを悼んで作った楽曲である。この歌を、沙耶香を同じ転落で失った聖子ちゃんが歌うには、どれだけ葛藤があったことか、察するにあまりある。それを乗り越えて、“Tears In Heaven”を歌う彼女の表情は、何よりもこの楽曲に深みを与えている。お決まりの、お涙頂戴では決してない。むしろ真逆に、さらっと。それができるのが人生の重みというのなのだろうか。

You’ve Got A Friend

Carole Kingのデビュー作にして1972年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞した『Tapestry(邦題「つずれおり」)』収録曲。1972年グラミーの最優秀楽曲賞でもある『You’ve Got A Friend(君の友だち)』

邦題の「君の友だち」は少々頂けないが曲は、50年経ったいまでも全く古さを感じさせない。この曲を聴いていてふと思ったこと。
この”友だち”とは神様ではないのか。

僕はキリスト教徒ではないので、深入りすることは差し控えるが、そう思えるのである。

”When you’re down and troubled. And you need some lovin’ care and nothin’, nothin’ going right. Close your eyes and think of me. And soon I will be there. To brighten up even your darkest night. ” そして、”All you have to do is call”とも語っている。

これは「神」だろうと。異教徒でも思う。

似たようなテーマの楽曲に、今井美樹が歌った『幸せになりたい』(作詞・作曲 上田知華)があるが、「冷たいやつがいる だけど友達が待っている ここにおいで」と歌い、友達に寄り添う気持ちを綴っているが、これはあきらかに実在する人間。

神について、ストレートに語らず、人間対人間のように綴りながら実は神について語っているという詩は意外に多いような気がする。

日曜日の昼間に獨楽庵の庭を眺めながらビールをのんで一考。