靖国神社

今日は、獨楽庵を休みにして靖国神社を訪ねました。9月6日(土)には、茶道宗徧流の家元献茶式が行われますので、その最終確認を兼ねてご挨拶です。

終戦の日を二日後に控え、早くも普段の数倍の参拝者が訪れていました。境内のあちこちには、参拝客の対応にあたるスタッフ用でしょうか、テントが張られていました。なかには、献茶奉賛会なる名入りのテントも。どちらかの宗匠が献茶をなさるのでしょうか。

約束の時間よりも早く到着できたので、お参りを済ませてカフェで昼ごはん。靖国神社にお参りしたらやはりこれに限ります。海軍カレー。

明治41年(1908)刊の海軍の調理教本『海軍割烹術参考書』の「カレイライス」レシピに基づいて再現された海軍食とのことです。

境内には能舞台もあります。春には、「夜桜能」が開催されことで知られています。桜の時期の靖国神社で舞う能は格別でしょう。これまで観能はかないませんでしたが、来年こそ。

ファラフェル日記③ 茶道の本質に気づかされた件

1週間獨楽庵を閉館して中東・イスラエルに旅行にいってきました。訪ねたのは、フランス留学時代の親友でその後25年のビジネスパートナーであるEN。彼の長男の結婚式に参列するのが目的でした。

結婚式は宗教色全くなく、いわゆる人前結婚式。レストランの屋上でレセプションがあり、陽が沈んだころから結婚式。新郎新婦の誓いの言葉に始まり、両親のメッセージ、親族・友人のメッセージと続き、最後に新郎新婦がグラスを割って式は無事終了。あとは、ダイニングに移って着席の食事と、おきまりのダンス!老若男女入り乱れてのダンスは、深夜を過ぎても終わる気配もなく、時差ぼけとアルコールでダウンした私は、フランス人の友人夫妻に伴われて1時ごろに無事パーティ会場を後にできました。

抹茶が海外でブームであることは幾度となく耳にしています。それにより抹茶が品薄になっているという現象も実感しています。今回も、新郎の叔父、つまり私の友人の弟がお祝いのスピーチのなかで茶道について触れていたのが印象的でした。

意訳すると”最初は、5分で用意できる抹茶を点てるのになぜ1時間(実際は1時間もかからないですけどね)もかけるのか、不思議だった。味はまったく同じなのに。しかし、2、3年と経つうちに、それは単に、二つのものを結びつけるだけでなく(☜ここが、抹茶とお湯という例えから、結婚を暗喩しているのがニクイ)、何か素晴らしいものを創りだしているのだと。そのためには、新しいものを創りだすという深い思いが必要なのだ”。という内容です。

茶道の本質を射抜いていると思いませんか?私たちは、単に抹茶にお湯を注いで泡立てているだけではないのです。何か新しいもの。素晴らしものを創り出そうとしているのです。そのためには強い思いが必要なのです。

翌日、イスラエルの友人夫妻と、同じくフランス留学時代の友人夫妻、それとかのスピーチの主を招いてちょっとした茶道教室を開きました。

長くなりますので、続きは次の投稿で。

写真は結婚式前のレセプション風景

ファラフェル日記②

ファラフェルというのはイスラエルを含む中東(特に地中海沿岸)で広く親しまれている料理で、簡単にいうとひよこ豆のコロッケです。同じく、ひよこ豆かた作ったペーストであるフムスも彼の地では人種を問わず親しまれている食べ物です。同じものを食べていながら、骨肉の争いに無情を感じつつ現地で見聞きしたことをまとめます。

異教徒である私は「旧約聖書」と「新約聖書」の違いには極めて鈍感でありますが、今回エルサレムにある国立図書館を訪ね、聖書に関する研究所のあまりの多さに、現地の人に尋ねたところその答えが示唆に富んでいたので、忘れないうちにまとめておきたいと思います。

なぜ聖書を勉強するのか。イスラエルにはオーソドックスと言って、黒い服に身を固め一日中聖書を読んでいる人たちがいます。彼らは聖書を勉強する代わりに国から保護を受けているので、働く必要はありません。では、なぜ聖書の勉強がそんなに仕事と両立できない程大事なのか。どんなにありがたくても、聖書は聖書です。研究対象は有限であるので、いつかは勉強も終結するのではないかと思うのですが、実際は「無限」なのだそうです。ですから、一生を賭して勉強する価値があるのでしょう。

では何故「無限」なのでしょうか。それは、解釈が無限だからです。イスラエルというかユダヤ人社会には、ラビと呼ばれる聖職者がいます。聖職者と言いましたが、ラビの影響力は宗教にとどまらず、ユダヤ人の生活の細部に関わります。何か迷ったことがあったら、身近な住職や神主さんに相談に行くことは現在の日本でも確かにあります。そのような立場なのかもしれません。

確かに聖書に書かれていることは有限です。誰も書き加えたりはしません。しかし、記述があまりにシンプルなので、解釈が必要で、しかも多くのラビが行っているのです。憲法に対す判例のようなものでしょうか。ともかく、その解釈があまりに多くほぼ無限なのです。ですからオーソドックスという人たちの勉強は尽きることがないわけです。この説明を聞いて、分かったようなわからないような・・・不思議な感覚でしたが、翻って我が茶道を見ると、同じようなことが行われてきたと考えることができます。ですから、茶道の稽古も無限なのだと合点がいきました。

例えば点前。点前を分解して、それぞれに決まりを作って定義していくことは容易いことだと思います。しかし、それぞについて、様々な時代の宗匠が解釈や変更を加えてきた結果が、現在の茶道と考えるに至ったわけです。平点前一つとってもそうですし、点前のバリエーション展開についても、同じようなことが言えると思います。

だから、勉強に終わりがないのです。