稽古に思う

茶の湯(茶道)、江戸小唄、能楽と3つの分野に生息しているわけであるが、茶の湯(茶道)以外は弟子として稽古をつけて頂いている。いわば呑気な身である。茶の湯(茶道)に関しては、家元より茶道教授の許しを頂いているし、実際に弟子の指導にあたっている。

そんな中で、師匠の指導方針、弟子の稽古に対する姿勢について考えるところがあったので年の瀬にまとめておきたい。

指導法については、大きく次の2通り。通しで稽古している最中に、問題があれば逐一ストップをかけて指導を入れるタイプ。とりあえず最後まで流して、その上で問題点を指摘するタイプ。最も、最後まで流して、弟子が尋ねなければ決して教えない師匠もいらっしゃる。

弟子を見ても、躓こうが間違えようがひとまずは最後まで到達しようとするタイプと、逐一確認しながら進めるタイプ。

これらに関しては、「ひとまず最後まで到達する」という意識が重要だと考えている。例えば、茶道の点前で、逐一確認しながら進めるタイプの弟子もいるが、これだと学習が遅くなると思う。間違えた所作には間違えたなりの論理があるはずだ。それなくしては、間違えを間違えとして認識し、改めることはできない。間違えようが躓こうが、ひとまず最後まで到達する意思が需要だということ。稽古に臨んだ時点で自分の身についているこことを師匠の前で披露し、それに対して指導を受けなければ、身に染みないと思うのです。途中で逐一確認していると、確かに「失敗」はしないが、それはただそれだけのこと。失敗があって初めて身につくと考えれば、失敗を避けていては上達はない。

来年は、その気持ちで稽古に臨もうと思う。

マインドフルネスって?

茶道に関するネット検索を続けていくうち「マインドフルネス」と言葉が目につくようになりました。私自身、初めて目にする言葉ですのでGoogleで検索してみると「今、この瞬間」に意識を向け、自分の思考や感情、身体感覚を評価・判断せず「ありのまま」に気づき、受け入れる心の状態や実践方法」なのだそうです。筆者の世代には、ブルース・リーの名セリフ「Don’t think, Feel」みたいな感じかなあ・・・と思ってしまいます。その時点で、東洋的であるのかもしれません。それゆえ、「茶道」と相性がいいのかもしれません。

しかし、マインドフルネスという言葉と茶道を結びつけることには違和感を禁じ得ません。この違和感は今のところ直感レベルでしかありません。この違和感どこに起因するのかは、思考を重ねなけばなりません。一つの手掛かりは、マインドフルネスが一種のセルフケアの方法論として流通いているという事実です。茶道(私は茶の湯と呼びますが)の本質は「おもてなし」。つまり、他者に対する意識が核心です。そこに、セルフケアという自分の内面に対する価値観を持ち出すことの違和感かもしれません。

来場御礼

昨日(11月24日)、東京銀座・観世能楽堂にて東京松響会記念大会が開催されました。日頃、獨楽庵を応援していただいている方々にもご来場頂きました。皆様のご厚意に心より厚く御礼申し上げます。

東京松響会は、シテ方観世流能楽師・林喜右衛門先生に師事する社中のなかで東京で稽古を続けている者の集まりです。今回は、師の十四世林喜右衛門襲名記念という目出度い会でした。その会で、能『猩々』のシテを勤めさせて頂きました。

出来は本人的にはイマイチだったと思っておりますが、これは茶道でも小唄でも同じ。反省は反省として割り切って、次に進むしかありません。終了後の打ち上げで師匠より「能になっていた」「申し合わせのときはガキガキしていたのに」と、最高の言葉を頂きました。会までの数週間、とにもかくにもお囃子を聴くことに集中しました。お囃子が聴こえてくると、逆にお囃子から自由になれるようです。厳密に言えば、お囃子のこの節のときに、どのような型をしていなければならないという定型はあります。しかし、それだけでないことを今回は感じました。お囃子という尺のなかに「序・破・急」を入れ込む。誤解を恐れずに言えば、辻褄があっていればよいということか。申し合わせの時のガキガキはとは、言い換えればお囃子が聴こえておらず、お囃子から外れる恐怖とともに舞っていたということだと自覚しています。

これは、小唄にも共通するはずです。これまで、小唄は糸方の合図にた頼って唄いだし、かろうじて三味線の尺に間に合うという唄かたでした。これからはもっと三味線を聴いて唄うことに集中しようと思います。

酒を飲みながら玄人の能楽師と茶道の点前と能の共通点について語り合いました。お互いの共通した観点は、「体がこういう体制だったら、それに続く動きは本能に近い」ということ。つまり、「こういう態勢では、次はこういう動きしができない。それは本能にちかい」ということ。そこに体重移動という視点があるのはまさに能楽師。今回稽古を続けていて、改めて確信したことは能も点前も、型の連続であるということ。一つ一つの型を正確に体に染み込ませること。そして、ひとつの型が終了するまえに、次の型に移らないこと。

大舞台を無事に勤めることができ、一晩経って、こんなことを考えています。