『茶道便蒙抄』 〜 膳

宗徧流初代、山田宗徧が著した本邦初の茶道指南書『茶道便蒙抄』から気になった記述を紹介したい。『茶道便蒙抄』は、亭主の心得、客の心得は別章に書かれているので、両者を併記すると面白い。

初座(炉)において、炭点前が終わり膳が運ばれる際の作法について。

亭主の心得
客の勝劣によらず亭主膳を持ち 勝手口につくばひ障子をあけ膳をすゆる。寒き時は障子を立べし。さて引物は客同輩ならば給仕人持ちて出ても正客の前に必ずおきてよし。その時汁なくば伺ひ替えてよし。

客の心得
主かならず膳をすゆるなり。ぞの時かしこまり「御給仕過分のよし」申し。膳を中に請取り載き下に置。その時次の客「御給仕は御無用になされ御通ひを必ず御出しあれ」と申してよし。然れども下座までも茶主膳をすゆるなりその時客一同に 「必ず御通ひの者を御出し候て。御食まいるべき」由を申べし。

客の身分によらず、膳は亭主が運ぶのが原則。面白いのは、客は膳を受ける時に「給仕=半東をお出しください」と、亭主自ら膳を運ぶにはおよばずと申し上げる(これは、すべての客同様)。しかしながら、侘び人は亭主がすべての膳を運ぶべきと書かれている。客の給仕を云々の口上は、山田宗徧にしては冗長であるように思えるが、宗徧がこの書を著した時は、徳川家譜代大名の名門小笠原家の茶頭であったので、武士階級ならではの格式があったのだろう。

重要なのは、どんなに客に給仕を出すように勧められても、それに反して全ての膳を亭主が運び出すこと。侘びのおもてなしの精神が最も顕著に表れている部分であると思う。料理の内容は貧しくとも、亭主自らが給仕することが侘びを成立させている要件なのだと思う。

芸術としての書

獨楽庵では、2月18日(火)に名児耶 明先生をお招きして、講演会を開催します。大変失礼ながら、白状いたしますと、私これまでに名児耶先生の著作を手に取ったことがなく、これを機会に読み始めてみました。

一番の衝撃は書を芸術として捉えるアプローチ。これまで、書を見る機会はあっても、その書の一文字一文字、ましてや空間に目が行くことはありませんでした。頭でっかちな現代人は、どうしてもその内容、意味に注意が向いてしまいます。それは、あまりに活字に慣れてしまったからなのかもしれません。

名児耶先生は、「書は文字という記号を通して、作者の心、魂を紙面に表現できる最もシンプルな芸術」おっしゃいます。この視線は、明らかに欠けていました。茶席で一番大事なお軸を拝見しても、不埒な客は軸の読みと意味しか尋ねず、それに対する感想しか返しません。もっと書そのものを鑑賞する必要があるのではないか。その書から感じられる作者の心、魂について問答すべきではないのか。と、頭にガツンと一撃を受けた気がします。

ある時、松平不昧公の書を掛けていて、それをみた女性客は「丸文字みたい」と感想を述べられましたが、そこには書と真正面に向き合うことの片鱗があったのだと思います。

書に限らす、作者云々、来歴はそれはそれで茶席のご馳走ではありますが、もっと書は書、茶碗は茶碗として美を見出すことにも心を注ごうと思った、新春でありました。

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松峰小唄『雪の南部坂』

赤穂浪士討入、忠臣蔵に関連した小唄がもうひとつありました。灯台下暗し。茂木幸子作詞、初代松峰照作曲『雪の南部坂』(昭和61年)です。

これも松峰派を代表す大曲(小唄の大曲というのも変ですが)で、題名のとおり忠臣蔵の名場面のひとつである「南部坂の別れ」を唄った作品です。

”降りしきる雪は巴の南部坂 寺坂一人共に連れ 今宵に迫る討入に 他ながらのいとまごい (セリフ)「おお、蔵之助か 久しゅう待ちかねました」 昔に変わる御姿 思わずはっと胸せまり言うに言われぬ苦しさに (セリフ)戸田殿 この袱紗包は絵巻物 御機嫌直りしその頃にきっと開いて御目ににかける様」 瑤泉院の御嘆き その御涙背に受けて 一夜明くれば喜びに変われと打ち込む山鹿流”

セリフが特徴の松峰小唄ですが、この曲は特に多く曲のおおよそ半分がセリフです。それはさておき、松の廊下の事件のあと、浅野家はお取り潰しに。内匠頭の妻、瑤泉院は実家にひきとられますが、その実家が南部坂です。討入の当日、最後の別れに瑤泉院を訪ねた蔵之助は、吉良家の忍びの者がいることを用心して、討入のことは頭にないふりをして暇乞いをします。それを見た瑤泉院は腹をたてますが、蔵之助はいいわけすることもなく袱紗包を置いて屋敷を後にします。この袱紗包みこそ四十七士の連判状でした。