散るは浮き

このブログでも、何度か書いたかと思いますが記念すべき小唄第一号は、「散るは浮き」という曲です。江戸の末期、二代目清元延寿大夫の娘、お葉が父の遺品のなかから松平不昧公から贈られたという歌を見つけ、その歌に節をつけたものです。

不昧公の歌は「散るは浮き 散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」ですが、お葉ささんが優れているのは、最後の一句「山川の水」を「山川の水の流れに月の影」と変更しているといことろです。水に映る月を加えることで、情景に奥行きができたと思います。

さて、能書だけでは伝わらないと思うので、動画を作ってみました。唄っているのは、小唄松峰派家元・二代目松峰照師匠です。松平不昧公にちなんで、不祥私のお茶のお点前動画をつけてみました。

柳橋から

“柳橋から小舟で急がせ 山谷堀 土手の夜風がぞっとみに沁む衣紋坂
君を想えば あわぬ昔がましぞかし どうして今日はござんした
そういう初音を聴きにきた“

柳橋とは江戸イチの花街であり、吉原遊廓の表玄関でもある。当時の粋人は柳橋から猪牙舟で隅田川に出て、山谷堀を上り日本堤に到着。そこから衣紋坂をを登って吉原大門に向かっていたらし。

まだ春浅い陽気。柳橋でいい調子で飲んでいたら、衣紋坂に辿り着く頃にはすっかり陽も落ち、川風の冷たさが身に染みるというのである。衣紋坂を進んでいると、馴染みの遊女に見つかり、軽く嫌味も加わり「今日はどういうわけでいらっしゃた」と問い詰められる。遊女も遊女で、この男に逢いたい一心でいたところに偶然出会ったので飛び上がるほど嬉しいはずであろうが、それを隠して(隠せないだろうが)つれない素ぶり。

そんな遊女の気持ちを知ってか、知らずか、男は「そういう愚痴を聞きにきたのさ」と軽くいなす。もちろん、「愚痴」などと野暮な言葉は使わずに、「初音」と洒落るところがいかにも小唄らしい。

茶道もしくは茶の湯

茶道あるいは茶の湯というもの(以後、面倒なので“お茶“とする)に対する興味はそれこそ千差万別。同じ流儀に所属し、一緒に稽古をしていても異なる。ここが茶道教授として指導する際の最大の問題の一つである。とは言え、ある程度のモデルを設定しないと指導がしにくいことも事実。

そこで、“お茶“に対する興味の構成要素について考えてみた。構成要素は概ね次の3つにまとめられるであろう。
 ① 点前、作法
 ② 道具、設え・室礼
 ③ おもてなし

“お茶“に対する興味は、この三要素の強弱で考えることができるのではないだろうか。茶道教授を名乗る方は、①に対する興味が一際強いのではないかと感じることは多い。一方、数寄者(すきしゃ)と呼ばれる方は②に対する興味が強いようである。茶道教授も数寄者も多かれ少なかれ、おもてなしには興味があるはずである。なぜなら、それがお茶の目的であるからだ。しかし、おもてなしに一際強い興味をお持ちの方もいらっしゃる。三要素は、どれが強いか弱いかということが重要で、どれが欠けていても“お茶“にはならないだろう。

それでは、自分はどうなのかというと、
 ① 点前、作法 ★
② 道具、設え ★★
③ おもてなし ★★★
というあたりかと思う。

準備を整え、お客様をお迎えし、懐石・抹茶をお出ししながら“お茶“の話をする。しかも一方向ではなく対話。これがことの他楽しいのが現在地。