鱒の塩焼き

昨日は、地元の福祉施設の秋祭り。入所者、職員はもちろん近隣の住民を招いてのイベントでした。朝、この施設の理事を勤めている元町会長から携帯に電話。鱒の塩焼き要員に駆り出されました。

この日のために200尾の鱒が手配されており、80尾はプールに放たれて「釣り堀」に。残りは下拵えされて駐車場に建てられた町会のテントに。9時半頃に集合。キャンプ用のバーベキュー台で早速炭の準備を進めますが、着火剤くらいでは炭に火がつかないのは常の通りです。家から、細かな(火がつきやすい)炭を持ち込み、まずその炭に火をつけて、その火で焼き物用の炭に着火することでなんとか炭の準備完了。茶室の炉と灰の力を再確認。

その後は、午後2時過ぎまでひたすら鱒を焼き続けました。テントの傍では、鱒の唐揚げも作っていましたので、約100尾焼いたことになります。途中、何度か試食しましたが炭火でじっくり焼いた鱒は美味いですね。頭からガブっと。ビールが欲しいところですが、じっと我慢。

所内には、キッチントラックも来ていたり、射的やスーパーボールすくいなどのゲームのブースも。施設内では、高校の吹奏楽部、合唱部の演奏。地元の阿波踊り連のパフォーマンスなど家族で一日楽しめるイベントでした。

こういう場所で、茶道体験はうけるのでしょうか。

茶道と能の共通点

11月24日の観世能楽堂に向けて、『猩々』の稽古が佳境に入っています。
これまで何度か書いたと思いますが、改めて能と茶道の共通点について思い知らされています。

能は型の連続です。特に舞はそうです。ですから、能を洗練させるためには一つ一つの型を正確に美しく身につける必要があります。それとは別に、型の組み合わせ、順番を覚えなければなりません。これも、型の連続と考えると理解が進みます。

一方の茶道の点前。これも型の連続と考えることができます。茶碗の持ち方、立ち座り、柄杓の扱い・・・云々。全てが一つ一つの型に分解することができます。ですから、点前を洗練させるためには、一つ一つの型を正確に美しく身につける必要があります。これは、従来「割稽古」と呼ばれていた教授法です。しかし、許状が進み複雑な点前を稽古するようになると、順番に意識がいってしまい、型を身につけることが疎かになるようです。どんなに上級の複雑な点前と言っても、全ては型に分解することができるはずです。意識を順番よりも型に移すことが上達の近道ではないかと思っています。

そして、両者に共通していることは、型は型として完結させ、型の途中に次の型を初めてはならないということ。能でこれをやると、見るからにダラシなく見えるようになります。茶道でもきっとそうだと思います。

一つ一つの型を大切に。型を完結してから、次の型に入る。「型」という意識が大事です。そして、ノリよくつなげること。

ーーー 東京松響会 ーーー

日時 令和7年11月24日(振替休日) 午後9時半開演
    *私の出番は、16時頃
会場 観世能楽堂 東京銀座・ギンザシックス地下3階
入場料 無料

お近くにお出掛けの際には、是非お立ち寄りくださいませ。

秋の小唄

四畳半の音曲とも称される「小唄」ですが、秋の唄は意外に少ないようです。秋の夜空に浮かぶ冴えた月はとても粋な気がするのですが。

私が秋と聞いて真っ先に思い浮かべるのは「手紙」という唄です。作詞 茂木幸子、作曲 初代松峰照

「秋ですね 月の青さが切なくて 思わず手紙を書いてます あんな別れをしたままで 素知らぬふりして気に病んで 意地で堪えているものの やっぱり貴方が恋しくて 一人でお酒を飲んでます」

八王子の花柳界には、「手紙」の小唄振り(小唄に合わせた舞踊)を持っている芸者がいました。この芸者の振りでは、巻紙に筆で手紙を書く振りが入っていました。この唄ができたのは昭和の後期です。加えて、松峰小唄に出てくる女性は現代的な自立した女性が多いことを考え合わせると、手紙は万年筆のような気がするのです。