義士茶会

年の瀬の声が聞こえ始めると、宗徧流門人はソワソワしだします。12月14日は、赤穂浪士討ち入りの日。宗徧流では、この日に合わせ討ち入りで命を落とした吉良家、浅野家双方の霊をともらうため『義士茶会』を開催します。全国レベルの義士茶会は地区の持ち回りで開催しています。今年は、九州・唐津に300名以上が集まります。その他、地区・支部または個人が全国各地で義士茶会を催します。

流祖宗徧は27歳で元伯宗旦から皆伝を受け、三洲吉田藩・小笠原家に茶頭として出仕します。70歳で家督を後継の宗引に譲り江戸に下り、江戸本所に結庵します。本所と言えば、討ち入りの舞台となった吉良邸があります。宗徧はここで討ち入りに遭遇します。宗徧には、吉良家にも赤穂浪士にも弟子がいました。これが「義士茶会」の由来です。

討ち入りを成し遂げた赤穂浪士は、吉良公の首は船で品川に送り。茶席にあったといわれる利休所縁の「桂川籠」を白布でくるみ首に見立てて品川まで行進したと言われています。その桂川籠は現在、香雪美術館に保存されています。宗徧流・義士茶会では、「桂川籠」がお決まりの一つです。

住吉大社

茶道具には大阪の住吉大社を題材にした「住吉蒔絵」は少なくなく、私も輪島塗師・茶平一斎造の住吉蒔絵平棗を愛用している。松、橋、鳥居、社がお決まりである。

先のブログで触れた「まくらことば」ではないが、「住吉」にもそのような由来はある。私たち能楽愛好家にとって「住吉」とは、能「高砂」なのである。九州阿蘇神社神主の友成は、都にのぼる途上、高砂の浦に立ち寄る。そこで、松の木のもとを掃き清める老夫婦と出会う。話をしているうちに、老夫婦は我々は相生と住吉の松であると、「相生の松」の謂れを話します。「相生なのに、なぜ高砂と住吉に分かれているのですか」と問うと、「住吉で会いましょう」とスーッと消えてしまう。

意を決した友成は、船を出して住吉(大阪の住吉大社)に向かうのであるが、この場面で謡割れるのが、かの有名な「高砂やこの浦船に浦をあげて」の一節なのである。結婚式のお祝いで奉納されることが多いこの謡、夫婦の永遠の契りを讃えた謡。やがて、友成が住吉につくと、住吉大社の神が現れて祝福するというくだり。

であるから、我々は「住吉蒔絵」に出会ったら、能「高砂」を思い浮かべる。そして、亭主の道具選びがそれに適っていたら、大興奮!である。お茶はある意味、そういうものなのかもしれない。

お伊勢参り

『伽羅の香』の話がでたので、同じく初心者が初めに習う代表曲として『お伊勢参り』について。

”お伊勢参りに 石部の茶屋であったとさ 可愛い長右衛門さんで 岩田帯を締めたとさ エサッサノ エサッサノ エサッサノサ”

歌舞伎の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』を題材にした小唄である。登場人物は、信濃屋お半、14歳。長右衛門、38歳。お伊勢参りの道すがら、石部で出会った二人は一夜をともにするが、あろうことはお半は身籠もってしまう。それは、「岩田帯」から明らかである。お半は許嫁があったこともあり、二人は桂川で入水自殺に至るのであるが、それを1分少々の唄にまとめたのが小唄『お伊勢参り』である。この芝居を題材にした唄は他にもあり、それによればお半はまだ振袖で、二人は岩田帯で互いを繋ぎ入水したことが描かれている。

小唄に限らず、日本文学、日本の歌謡は引用の芸術であると思う。和歌や俳句は短い文字数で情景を伝えなければならない。例えば、まくらことばは、出てきたら読む人が共通にある情景が浮かばなければならない「キーワード」である。この場合も、「お伊勢参り」と出たら芝居の「お半長右衛門」が頭に浮かばなければ、この小唄は成立しないのである。

この唄の題材になっている「お半長次郎」は心中に至る悲恋の物語であるが、それを軽快な節と、後半のエサッサ・・・で煙に巻いている。ゆえに、「お伊勢参り」で「お半長次郎」が浮かばなければ、只の調子の良い唄になってしまうし、そう唄ってしまう。そこが、小唄の難しいところだと思う。

伽羅の香

去る、10月27日 八王子文化連盟が開催している「八王子文化祭」の一環として開催された「香の会」に参加しました。今回は、「三種香」という香を聞き分けるゲームでした。三種の香を3包ずつ用意し、それらの中からランダムに3包選択。それらを1包ずつ聞いてそれぞれが同じものか、違うものかを当て、その結果を香図というもので表現しますが、その香図それぞれに源氏物語に因んだ名前が付けられているのが、いかにも香道らしいと思いました。

香道と茶道は関連性が強く、ある意味では香道は茶道の母のように思うのですが、そのことは後日に譲るとして、今日は小唄。

有名な小唄に『伽羅の香』という曲があります。あまりに有名なので、小唄を始めて最初に教えるお師匠さんも少なくないと思います。私もそうでした。

“伽羅の香とあの君様は いく夜泊めても わしゃ泊めあかぬ 寝ても覚めても忘られぬ“

男が女の元に通う通婚の時代でしょうか。夜毎現れる君様は、伽羅をたき込んでいたらしい。重要なのは、想いは「香」ということ。寝ても覚めても忘れられないくらい、「香」は心に残るのでしょう。香で想いを伝える。日本ならではではないでしょうか。

My Favorit Foods

画像中、左手前にあるのはひよこ豆のペースト。中東では極めて一般的な料理で、イスラエルではフムスと呼んでいたが、おそらく周辺の諸国でも同じくフムスと呼んでいると思う。イスラエルではピタと呼ばれるパンでディップしたり、ピタを開いてその中にサラダ、ステーキと一緒に入れてサンドイッチのように食べることもある。ステーキとは肉を貼り付けた円柱状の塊を焼いて、焼けた部分を削ぎ落とすもので、中東版シュラスコと言えば通りはいいであろうか。

右手にあるのは同じくひよこ豆を使ったコロッケ。イスラエルではファラフェルと呼んでいたが、周辺諸国も同じだと思う。この写真はトルコ料理店でのものだが、フムスとファラフェルであったし、地元にあるエジプト人がやっている店でもファラフェルであった。

中東は我々島国で生まれ育った身には理解し難く複雑であるが、食べ物は共通点が多い。

なにはともあれ、ここにクラフトビールがあれば言うことなし。幸せである。

紅葉

今日は、朝から市営コートでテニススクールでした。午前、午後の2クラスに参加し課題を整理することができました。月曜日は、市内の都立高校のコートを借りてたっぷり4時間ダブルスと楽しみましたが、バックハンドストロークがどうにも厚く当たらず、チャンスボールも決めることができず苦杯を舐めました。

今日は早速コーチに頼んでバックハンドストロークを見てもらいました。原因はボールとの距離が近すぎることのようです。近い距離で打ち続けていたため、テイクバックでの腕とラケットの角度をリリースしないままヒットしていたようです。今日一日では修正はできませんでしたが、課題がわかればなんとかなるはずです。

クラスの合間に、公園のベンチで軽くランチしましたが、コート脇の楓?が見事に色づいていました。獨楽庵の紅葉、楓はまだ色づく気配がありません。今週から気温はぐっと下がるようですから、獨楽庵の木々が色づくのも時間の問題だと思います。

松峰小唄 「雪あかり」

「最果ての 今宵別れていつ会えるやら 尽きぬ名残を一夜妻 帯も十勝にこのまま根室 灯をを消して 足袋脱ぐ人に 雪明かり」

歌人・石川啄木が最果ての釧路の停車場に降り立ったのは、明治41年(1908)1月21日。この時の心情を読んだ歌に「さいはての 駅に降り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りけり」がある。北海道新聞社の前身である釧路新聞社の記者として釧路に入った啄木は、この地に76日間滞在した。

その間、三人の女性と激しい恋に落ちたと言われる。この小唄は、その啄木が釧路を立つ4月5日の前夜の情景なのかもしれない。激しい恋をした啄木も、今宵ばかりはしっとりと最後の夜を過ごしたのだろう。「帯も十勝」は「帯も解かじ」である。帯も解かずに、このまま根室(眠ろう)。静かさ故に激しい恋の炎を感じさせる。小田将人作詞、松峰照作曲(昭和45年)小唄松峰派、代表曲の一つである。

江戸小唄では、一般に古曲を扱う。明治から大正にかけて作られた唄が多く、その時代を唄った楽曲もあるが、江戸時代の庶民の心情を唄ったものが大半である。確かに、江戸情緒に浸るのも悪くない。しかし、唄に容易く共感を覚えることはできない。松峰小唄は、まさに現代の唄であり、我々、特に昭和世代には胸に刺さる楽曲も多い。この「雪あかり」は三味線もドラマチックであり、新曲を得意とする松峰派ならではの名曲だと思う。

もう少しすると、この曲にぴったりの陽気になりますなあ。

SATURDAY NIGHT ZOMBIES

ユーミンの松任谷由実としての19枚目のアルバム『ダイヤモンダストが消えぬ間に』(1987年)からシングルカットされた一曲。数年前に、手元のCDは全てパソコンでデジタイズして、AppleのiTunesに保管し、日常はそれらをランダムで再生して楽しんでいる。今日、いつもの酒場で飲んだあと雨の中を歩いているとこの曲がイヤホンから流れた。

“紅いマニュキア滴るくちびる うなじ抱いてdance, dance, dance 今がchance, chance, chanceかぶりついたら とろけるようにあなたも仲間よ ぬけられないfantango 夜ごと touch-and-go 疼いてさまよう 留守番電話にはSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる めくめるZombie’s NIght

満員電車 汚れたワイシャツ あれは夢よdance, dance, dance 今がromance, chance, chance 本当のあなたよ BMWの箒でSaturday Night 街のそら飛びドアを蹴って おいでよパーティへ 狼になってもSaturday Night 驚く人は誰もいない 盛り上がれZombie’s Night
Saturday Night 死人も生き返るSaturday Night 墓場に行ってくると残し おいでよパーティへ 死人も生き返る Saturday Night 永遠の命わけてあげる・・・”

1987年といえば、バブルの頂点。その空気感を実に見事に表した曲だと思う。当時「社畜」という言葉があったかどうか定かではないが、月曜日から金曜日は残業の連続。まさにゾンビ。そこからの土曜日の”斜に構えた”高揚感。大いに共感できる。社畜のごとく働く様子が「汚れたワイシャツ」という一言で表現されている。しかし、その同時期の女性は「紅いマニキュアと滴るくちびる」で武装していたのか! 当時新入社員である身には記憶のかなたに、そうした図は確かにある。 さらに「BMWの箒」。当時、BMWは六本木カローラと称されていたと記憶している。猫も杓子もBMWに乗って夜の街にくりだす。まるで、魔女の箒のようだったのだろう。これも素直に共感できる。というか、もの凄い言語能力だと思う。

すでに儚くなった当時の記憶を辿ると、金曜日の夜は六本木の「墓場」の隣の店で飲んでいた気がする。いまでも「墓場」はあるのだろうか。

小唄を一言で説明

小唄にかかわってかれこれ四半世紀。これだけどっぷり浸かっていると、客観的に小唄を眺めることが難しくなってくる。初対面の、それも小唄を知らない人に、どうしたら小唄を伝えられるか。常に課題である。

「幕末に江戸で清元お葉が・・・」などど発生した経緯を話でも伝わらないだろう。「三味線で唄う、短い歌」これも甚だ疑問である。今日思いついたのは、「お座敷で芸者の三味線で旦那衆が唄う歌」。これは今までに一番伝わったような気がする。この説明をすると、相手は即座に「八王子には芸者がいるんですか?」とか「粋なんでしょうね」という反応がある。第一歩を踏み出したような気がする。

かつては、旦那のものであったかもしれないが、今は小唄人口の大半が女性であろう。そうなると「旦那衆が座敷で・・・」というのは事実に反すると言わざるを得ない。女性の小唄愛好家は眉を顰めるかもしれない。しかし、これが一番的を得ているような気もするのである。ある意味、ステレオティピカルな表現かもしれない。現実から乖離しているかもしれない。しかし、この説明がなんとなく小唄に対して持たれているイメージに近いのだろう。

実際に聴いてもらうのが一番であることは言うまでもない。しかし、いま小唄を気軽に聴こうとおもったら、各派、あるいは連盟の演奏会ということになる。こういう会は、短時間に何曲も小唄を聴くことができる。しかし、魅力は伝わらないだろう。

やはり、小唄が輝く場所は花柳界なのだと思う。

点前の見せ処

仕舞を稽古していて分かった事は、仕舞は型の連続であるということ。だから、一つの型を完了しない限り、次の型にはいけないのである。単純な事ではあるが、これは大事な原則である。翻ってお茶の点前。これも、型の連続としてとらえることができる。であれば、一つの型を完了しない限り、次の型を始めてはならないはずだ。

しかし、これがなかなか難しいのである。弟子の稽古を見ているとよく分かる。気がせくとなおさらである。宗徧流の点前の特徴として「あしらう」という所作がある。例えば、茶を掬った茶杓を茶器の蓋に戻す際、一度指を茶杓の切りどめまで滑らせる。このあしらうという所作は一つには点前が丁寧に見えるという点がある。それだけでなく、型を完結させるという意識につながる効果があると思うのである。

仕舞には「序・破・急」というリズムがある。ゆっくり始めてテンポ良く終わるということ。型の一つ一つを分解すると、一定のリズムではないのである。このリズムが動作に緊張感を与えている。お茶の点前も同じなのかもしれない。

弟子を指導していて感じる事は、リズムが悪いということ。全体を通して「ゆっくり」。これは「丁寧」という事なのかもしれないが、時に野暮に見えることがある。例えば、濃茶は茶事のメインであり、懐石や道具組などは全て一服の濃茶を美味しく頂くためのものである。だから点前は重厚であって良い。しかし、薄茶は違う。そもそも、濃茶には足らない茶葉を挽いて軽く点てるのが薄茶であるし、濃茶をいうメインが済んだ後の気楽な茶が薄茶である。であるから点前は軽やかにが良い。しかし、全てが軽くては雑に見える。だからこその、「あしらい」であり「間」なのだと思っている。