B級能鑑賞法 その1

全くの成り行きというか、「交通事故」で能の稽古を始める至った経緯はすでにこのブログに書いた。とにも書くにも、1年半後には能舞台に立たなければならなかったのである。それも、能の「の」の字も知らない素人が。

神妙に稽古を続ける一方、能の雰囲気、能楽堂の雰囲気に慣れなければならないと思い至ったのはまさに天啓。能の泰斗である、白洲正子女史は「能は1000曲観ればわかる」と仰るが、1年で1000曲は到底無理。それでも100曲は観ようと、時間があれば能楽堂に足を運んだ。東京で日程が合わなければ全国各地の能楽堂にお邪魔した。結果として、一年間で百曲は観たと思う。

最初は苦痛でしかなく、能=睡眠時間であったが、途中から居眠りもせずに2時間弱に及ぶ大曲も楽しみながら観れるようになった。何故か?

それは、能の構成が分かったから。能のほぼ半数は複式夢幻能という形式をとっている。世阿弥が確立したこの形式は、複式=前場と後場の2場面で構成されている。夢幻=夢か現実か区別がつかない物語。という形式である。そして、物語にはいわゆる「テンプレート」がある。能が困難なのは、物語の先行きが読めないことに起因する部分が大きい。しかし、それが「水戸黄門」のように展開が読めたらどうだろう。「つまらない」という意見もあるが、実際には「安心して観れる」ことのメリットが大きいと思う。それは、毎回同じ構成の「水戸黄門」が何シリーズも人気を博していることからも知れる。「安心」して観れることは実は重要なのである。

その「テンプレート」とは何かは、次回に。

小唄の成立

小唄は幕末から明治を生きた清元の名手、清元お葉がその始まりと言われている。父、二代目清元延寿大夫へ、大名茶人として有名な松平不昧公が送った歌「散るはうき散らぬは沈む紅葉葉の 影は高尾か山川の水」に節をつけたのが最初の小唄と言われている。

一方、一般に小唄の祖は「端唄」と言われている。確かに、「端唄」と「小唄」両方の看板をあげているお師匠さんもいるし、同じ曲をときに「端唄」として、ときに「小唄」として歌うことはよくある。何より公益財団法人日本小唄連盟もそのように説明しているので、やはり小唄は端唄から派生したのだろう。

しかし、実際に「端唄」と「小唄」は実践者の目で見ると大きく異なる。まず、両方ともお座敷でよく演奏される。端唄は、芸者衆の踊りを伴うことが多く、歌も三味線も地方と呼ばれる芸妓が1人で演奏する。三味線は撥を使い、曲調は華やか。一方の小唄は、芸者の三味線で客(旦那衆)が唄うことが多い(少なくとも我々の現場では)。時に芸者の踊り(小唄振り)を伴うこともあるが、旦那衆同士が唄を聴かせ合うのが本道であろう。三味線は撥を使わず指で弾く。爪弾きと言われるが、実際は指の肉も使っている。当然、三味線の音量は少なく音も渋い。

小唄は基本的に糸方と唄方が分かれている。師匠だけは、弟子に唄って聞かせなければならないので三味線と唄を同時に演奏する。いわゆる弾き語りをしなければならないが、師範未満は基本的にどちらかである。これは三味線の節と唄の節が必ずしも合致していないからであり、時に早間があったり。これは、小唄が三味線を聴かせる音曲であるという説の所以である。一方、端唄の三味線は伴奏に近い。最初から弾き語りに適するようにできている気がする。

この点が、そもそも小唄と端唄の違いだと思う。小唄の師匠は日頃から稽古で弾き歌いをしているので気が付かないのかもしれないが、素人レベルで考えると、小唄の弾き語りなど人間業ではないと言わざるを得ない。三味線と唄の分業。小唄のこの特徴は、小唄は端唄よりもむしろ清元、常磐津などの語り物に近いと言えるのではないかと思う。確かに、小唄は語らない。しかし、「語るように唄え」と教えられる。やはり、小唄は端唄の変種ではなく、語り物の末裔なのではないだろうか。

写真は、(益社)日本小唄連盟のホームページから転載。

風の流れに身を任せ〜能楽事始め

趣味は?と聞かれれば「茶の湯」、「能」、「小唄」と答えざるを得ない。30代で起業し、56歳でリタイア。何やら若い頃に目標を立てて一途に取り組んできたかのようなイメージを持たれるが、実際は異なる。否、全く逆。

「誘われたら断らない」をモットーに流れに身を任せてきた半生ではある。「能」もその一つ。すでに、青山・鐡仙会で「鶴亀」、セルリアン能楽堂で「橋弁慶」のシテを勤めているの、さぞかし能好きなのかと思われるが、これも成り行き任せである。

そもそも、自分と能との接点はない。1、2回連れて行かれた記憶はあるが、「罰ゲーム」以外の何物でもなかったと、うっすらと記憶している。それが、ひょんなことから「謡」を習うことになり、入門したその1週間後、京都で行われた素人社中の素謡の会に、まさに右も左もわからないまま参加。「鶴亀」のシテをひたすら大声を張り上げて謡うというよりは「叫んだ」その夜、夕食会があり二次会は宮川町へ。ここで「何か」があった(ようである)。

記憶にあるには、自分にとって唯一の能との接点である、茶道宗徧流流祖 山田宗徧作の竹花入『黒塚』である。その話をしたことは覚えている。先生の反応は、「観世では「黒塚」言わんのですわ」だった。確かに、観世流だけは他流では「黒塚」と呼ぶ人食い鬼婆の曲を「安達原」と呼ぶ。そして、翌週の稽古。「小坂さん、ええのがありますわ」「鶴亀って言うんですけどね、ほぼ座ってるだけやし。どうですか?」 なんのことだかわからないうちに、「鶴亀」のシテをすることになってしまった。

それまで能とは無縁であったが、シテとして舞台に立つのであるから、少なくとも能の能楽堂の雰囲気は理解しておかなければならない。白洲正子は「能は千回見ればわかる」とおっしゃっているが、今から1000回が無理。それでも、一年に100曲は観ようと暇を見つけては能楽堂に足を運んだ。お陰で短期間のうちに、生意気に能を語るまでになった(笑)

写真は、きっかけになった山田宗徧作竹花入 銘「黒塚」