能楽あるある

能楽に親しみのない方が、驚くことの一つは「舞台に幕がない」ということだと思う。確かに、橋掛の入り口に幕はある。しかし、初めて能楽堂に足を運ぶ人は、舞台に幕がないことにまず驚くことと思う。

能が舞われる時は、橋掛の幕が上がり囃子方が橋掛を通って舞台に向かう。同時に舞台向かって右手の切戸口があいて地謡が登場する。全員が揃ったところで、唐突に笛の一声で全てが始まる。

昨年、ロータリークラブの先輩の在籍50周年祝賀会があり、不詳私も同じ社中の後輩と組んで、仕舞を勤めた。何の前振りもなく、まずは舞台下手から黒紋付袴の私が登場して舞台定座に着席。続いて同じく黒紋付袴の後輩が舞台中央に座り。扇を捌いたら、いきなり私が謡をはじめ。後輩が立ち上がって仕舞を舞うという流れ。

その間、観衆はあっけにとられていたはずである。全てが唐突。仕舞がすんだら、締めの言葉もなくさっさと下手に下がる。あっけにとられていた証拠に、拍手がないし写真も数枚しかない。しばらくして、我々が舞台裏から客席に戻ったところで拍手喝采。

確かに、能に縁がないとこの演出には唖然とするしかないだろう(笑)

江戸川区行船公園・源心庵

朝イチで、江戸川区西葛西にある「行船公園(ぎょうせんこうえん)」を訪ねた。行船公園は、昭和8年に地元の名市・田中源氏が公園用地として東京市に寄付。その後昭和25年に江戸川区に委譲されたのを機に公園として整備されたとある。「行船」は、田中源氏の屋号とのこと。小規模ながら動物園もあり、連日親子連れで賑わっている。

その一角に「玉池」と呼ばれる池があり、その辺りに「源心庵」と呼ばれる数寄屋がある。来たる9月15日(日)には、この池のほとりで『夕月の会』という野点の茶会が催され、その添え釜として、源心庵・月の間で薄茶席を担当することになっているので、挨拶を兼ねて下見に来たわけである。

源心庵・月の間で席を持つのは今年で3回目。この席は、池に向かって広いガラス戸があるので、池をうまくつかいたいとは思う。問題なのは、床がないこと。炉も切っていないので、茶室というよりは十畳敷きの座敷である。だから、毎回床をどうするか悩みどころである。工夫して諸飾りにするか、軸だけにするか。花はどうするか。

最低限、楽しい席にしたいと思う。

公園内にある石灯篭。慶安5年(1652)、陸奥磐城城主・内藤帯刀中忠興が江戸幕府三代将軍徳川家光公へ献上したとある。

靖国神社

靖国神社に参拝しました。桜の時期の靖国神社、能楽好きには「夜桜能」がすぐに頭に浮かびます。桜と言えば、東京の開花宣言も靖国神社のソメイヨシノが基準になっていうと聞きました。

夏の靖国神社もいいですね。夏の青空に白い雲。東京も捨てたもんではないと思いました。今週土曜日、茶道宗徧流は靖国神社で家元献茶式を執り行います。暑さだけが心配です。

九段下駅から靖国神社は上り坂になっている。だから九段下からお参りすると神社を仰ぎ見ながら鳥居をくぐることになる。事前、夏の青空と青空に浮かぶ白い雲を仰ぎ見ることになる。雲は坂の上にあるのがいい。司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』ではないが、坂道の先にある白雲には心を洗われる。加えてここは靖国神社なのである。

B級能鑑賞法的「忠度」

能「忠度」は、世阿弥作の典型的な複式無限能である。前シテは忠度の亡霊が姿を変えた尉(おじいさん)とかつては藤原俊成に仕え今は僧侶となっている人物(ワキ)との邂逅。後シテは、もちろん忠度の亡霊である。

この藤原俊成に仕えた人は今は僧侶になっている(僧侶がワキなのは、ある種の定型)。とある理由(今回は、西国を見たことがないので)により旅に出る。須磨の浜に早くに着いたので休息をとっている。(名所で休憩を取るのも定型)。そうこうしていると、橋掛から怪しい人が現れる。今回は、尉(おじいさん)である。尉と僧侶は言葉を交わし、僧侶は「暮れてきたので宿を貸して欲しい」と切り出す。すると、尉は「この木の下ほど相応しい宿はないだろう」と突っぱねる。そしてボソッと「行き暮れて木の下陰を宿とせば 花や今宵の主人なるまし」と呟く。それこそ、主人公「忠度」の辞世の歌なのである。ここで、尉と忠度の関係を匂わせながら、尉はスーッと消えていく。ここまでは前シテ。

後半(後シテ)は忠度の霊そのものが登場し、自分が討たれる場面を説明しつつ自分が読んだ歌が勅撰集に選ばれたのだが「読人知らず」とされたこと妄執となって成仏できないことを説明する。ワキ(僧侶)は回向を捧げ、修羅の時間となった忠度の霊は去っていく。

忠度の辞世の歌と言われている「行き暮れて木の下陰を宿とせば 花や今宵の主人なるまし」。この歌がこの能のテーマなのである。宿を求めたワキ(僧侶)に、前シテ(尉に姿を変えた忠度の亡霊)は、この木の下で休めという。ワキは「どなたを主とすればいいのですか」と尋ねる。そこで尉は「行き暮れて・・・」の歌を読むのである。で、僧は「その歌は、薩摩守(忠度)!」では、あなたは?と。ここで、“もったいぶって“、尉は消えて行くのである。

そして後シテ。自分の身の上を説明しきった忠度の霊は、僧侶(ワキ)に供養を頼んで消えていくのである。

忠度

能で最も好きな曲は何か?と問われると、難しい。しかし、最も好きなキャラクター(シテ)は誰かと問われれば、平忠度と即答できる。

薩摩守平忠度は、平忠盛の六男にして、平清盛の異母弟である。母は藤原為忠の娘。藤原為忠は、歌人として有名で新古今和歌集などにも入集している。その血を引いた平忠度も歌に優れまさに文武両道を極めた武将である。千載集には「漣や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」が撰ばれたが、「朝敵」とされたことから「読み人知らず」として掲載されている。これが、「忠度」の妄執となるわけであり、それを題材に、「忠度」と「俊成忠度」という二曲が書かれている。

平忠度は、一ノ谷の戦いで、源氏方の武将・岡部六太忠澄に討たれるのであるが、その最後があまりに印象的。忠度は、右腕を切り落とされながらも、左腕で相手を投げ倒しなおも戦おうとしますが、哀れ討たれてしまいます。その忠度の甲冑の箙に結び付けられていた一首「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵の主なるまし」が、能のテーマとなっている。

自らの歌が撰ばれながらも朝敵なるが故に「読み人知らず」して載せられたことが妄執となり成仏できない。歌人として名を残そうとする”文”の忠度。合戦において、退散しようとするなか名乗りをあげられて戦に戻る。武士としての名を重んじる”武”の忠度。最後は、右腕を切り落とされながらも果敢に戦おうとする”武”。まさに、文武両道の極み。

源平合戦。判官贔屓といわれようと、滅びる平家には美しい武将が少なくない。

仕舞と点前

茶道はかれこれ25年、能(仕舞)は6年ほど稽古している。といっても、能は入門していらい舞台でのシテを課題に稽古してきたという変り種なので、本格的な仕舞の稽古は限られている。『橋弁慶』はほぼほぼチャンバラであるが、『鶴亀』では、かの素人泣かせの「楽」があるし、後半は舞もある。現在は、来年の舞台に向けて『猩々』のシテを稽古中である。『猩々』には中之舞がある。

ということで、入門して以来、初めて仕舞を稽古している訳であるが、そんな身でも薄々感じることがある(☜今頃気がついたのか!という声も聞こえるが) 仕舞は「形」の組み合わせなのだということ。実際に、いくつの「形」があるのかは知る由もないが、ともかく仕舞は「形」の組み合わせでできている。もちろん、曲ごとに特殊な「形」や変形はあるが。

そう思うと、お茶の点前も「形」の組み合わせで説明ができるのではないかという気がしてきた。確かに、宗徧流のお家元は常々、点前上達のコツは「割稽古」と仰っている。割稽古とは点前中の動きを取り出して徹底的に体に染み込ませる稽古方法である。これを突き詰めていけは、点前は「形」の組み合わせとして説明できるのではないかと思った次第。

例えば、薄茶点前はこのように表現できよう
①「一服差し上げます」の挨拶
② 両器の持ち方
③ 点前畳への進み方(歩き方+点前畳への入り方)
④ 両器の置き合わせ(座り方)
⑤ 立ち上がり、客付き回り(立ち方+客付き回り)
⑥ 水屋への進み方 (歩き方+水屋への入り方)
⑦ 建水、柄杓、蓋置の持ち方 云々・・・

遅まきながら、「形」を通じた仕舞と点前の共通点の考察でした。

沖のかもめ

秋の勉強会に向けて、新しい曲の稽古をはじめた。『沖のかもめ』。常盤まさ来作詞、松峰照作曲(昭和56年)。松峰派代表曲の一つである。

小唄というと「江戸情緒」という言葉が直ぐ浮かぶので、どうしても江戸時代、新しくても明治という印象がある。実際、その時期に多くの曲がつくられ「古典」として愛好されている。『沖のかめもめ』は昭和56年。世はバブルの入り口。小生は、大学生で勉強そっちのけで日夜プールで格闘していた時期である。

”今宵別れりゃ何時また逢える 思いを込めてグラスを合わせ 言葉にならないさよならを むせび泣くよに流れてる 男と女の涙唄 沖のかもめに汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥波に聞け 辛い別れの夜が更ける”

”沖のかもめに汐時問えばよ・・・”の部分はいわゆるアンコであるが、節は「だんちょね節」のようである。「だんちょね」節と言えば、八代亜紀さんのヒット曲『舟唄』のアンコにも使われている。”沖のかもめに深酒させてよ いとしあの娘とよ朝寝するダンチョネ”。

小唄の方は「沖のかもめに」までは同じであるが、「深酒させてよ」ではなく「汐時問えばよ」と続く。この「汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥 波に聞け」は、ソーラン節の歌詞であるが、ダンチョネ節とソーラン節では、節も曲調もかなり違う。

要は、小唄『沖のかもめ』のアンコは、ソーラン節の歌詞をダンチョネ節の節に乗せて歌っているというところだろうか。そこで、ダンチョネ節のお決まりである、最後の「ダンチョネ」を省略しているところがミソであろう。「ダンチョネ」がなくても聴く人はダンチョネ節だとわかる。

大ヒットした八代亜紀さんの『舟唄』は、昭和54年。小唄『沖のかめも』ができたのは、2年後の昭和56年。人々の記憶に『舟唄』が生々しかった時期。アンコに考えたのは、「ダンチョネ節」ではなく『舟唄』だったのかもしれない。だから、「ダンチョネ節」の歌詞を、同じ「沖のかもめ」で始まるソーラン節に変えたのかもしれない。ダンチョネ節を直接引用したのではあまりにダイレクトすぎて、小唄の歌詞に奥行きがでない。「汐時問えばよ わたしゃ立つ鳥 波に聞け」というアッサリした文句からは、別れを現実として受け入れなければならない男女のやるせない気持ちが伝わってくる。

痛風〜その2〜

写真は元熊本大学医学部教授の納先生の著作の表紙である。先生は痛風が専門の医師であるが、ご自身が痛風発作を発症して依頼、ご自身を検体に毎日採血して尿酸値の推移を計測された。

その結果分かった事は、①酒を飲むと尿酸値は上がる。これは当然であるが、驚くべき(喜ぶべき?)は②酒を飲まなくても尿酸値は上がるということ。酒飲みにとって酒を断つことはストレスであるある。つまり、ストレスでも尿酸値は上がるのである。では、どうすれば尿酸値は安定(急激な乱高下が発作の引き金になりうるので)するのかというと、③日本酒換算で一合半を飲み続けるのが尿酸値を安定させるということである。

これは酒飲みにとってある意味吉報ではあるはが、日本酒換算で一合半で止めるのはかえってストレスになるのでは・・・と思うのである。

先生は一合半と仰るが、適量には個人差があるはずである。と、今日も酒場に向かうのである。

痛風

2日と空けずに晩酌を。それも始まりはいつもビール。当然痛風の恐怖と隣り合わせなのである。周囲からは、美味しいものに気をつけろ。ビールは止めろと、忠告を頂く。いずれも、「プリン体」が多い飲食物を慎めという意であろう。

しかし、ヒトの代謝メガニズムはプリン体を口から摂取したら、それがそのままヒトの血中のプリン体になるほど単純ではないのである。確かに一部は体内のプリン体になるだろうが、見落とされがちなのはアルコールを代謝した結果プリン体ができるという事実である。それも大量に。

であるから、プリン体が多いからといってもビールを忌避するのはナンセンスで、アルコールはプリン体が多いビールだろうが、プリン体が少ない焼酎だろうが、飲めば体内でプリン体が大量に生成されるのである。むしろビールには利尿作用があり、体内の尿酸の排出を助けてくれる。

と、嘯つつ今日も痛風の恐怖に怯えながらにビールを煽るのである。

台風

ある天気予報番組で、今年酷暑が続いているのはフィリピン沖の海水温が高止まりしているからという説明を聞いた。例年であれば、台風(熱帯低気圧)が発生し海水温を奪っていくのであるが、今年はその発生数が少なくそのために海水温が高く(どういう理屈かわからないが)日本周辺の気温も高いらしい。確かに、ここ一ヶ月で立て続けに台風に見舞われているから忘れてしまいが地であるが、今年の台風は少ない。

今週は台風10号の日本列島上陸が予測されている。間違いないであろう。あとは、上陸地点が関西なのか東海なのかという違いだけだ。

獨楽庵では数日前にいわゆるゲリラ雷雨に見舞われた。1時間ほどの降雨でああったが施設の一部では浸水も危惧される状況にあった。しかし、雨が止むとあっという間に水が引いてしまう。コンクリートではなく土の上に建っているからであろうか。あるいは、この地点は浅川に近く大昔は河原だったのかもしれない。とにかく、水の引きは素早い。要は、そのすぐれた吸水能力を上回る降水量であったということであろう。

さて、台風10号。獨楽庵はどのように立ち向かうのであろうか。