松峰小唄 「手紙」

先日、松峰照家元と話していて意外だったのが、松峰派の外で人気のある松峰小唄。松峰派は昭和になって旗揚げした小唄界にあっては新派に属する。そのため、新曲を得意とし、先代松峰照師が作曲した小唄は二百を超える。どれもが、現代に生きる我々にも共感しやすい歌詞であるのと同時に、清元や新内の節をうまく取り入れて舞台映えする作品が多い。セリフ入りが多いのも特徴の一つである。

そんな中で、松峰派の外で人気のある作品として挙げられたのが「手紙」。作詞 茂木幸子、作曲 松峰照 昭和53年の作品である。

“秋ですね 月の青さが切なくて 思わず手紙を書いてます あんな別れをしたままで素知らぬふりして気に病んで 意地で堪えているものやっぱり貴方が恋しくて 一人でお酒を呑んでます“

この作品でも、やはり女は強いのである。あんな別れとは、痴話喧嘩の果てに女から別れを突きつけたのだろう。それを悔いながらも、「素知らぬふり」をして堪えているのだ。意地で。でも、忘れられずに酒を呑みながら、手紙を書くのである。どんな内容かは想像にお任せする。

地元の花柳界の芸妓の一人が、「手紙」の振りを持っている。彼女の振りによれば、「手紙を書いてます」のところは巻紙に筆である。それも良い。が、昭和の女である。万年筆が似合うのではないかと思うのだ。

画像は、内容に関係ないフェルメールの「手紙を書く女」

リアル猩々😊

今年になって、獨楽庵に来庵されるお客様が手土産にお酒をお持ちくださることが多くなりました。懐石にお酒はつきものですので、とても嬉しい陣中見舞いです。お陰様で、獨楽庵は酒が尽きることがありません。酒が尽きぬといえば、能「猩々」

『よも尽きじ。万代までの竹の葉の酒。汲めども尽きず飲めども変はらぬ。秋の夜の盃。影も傾く入江に枯れ立つ。足もとはよろよろと。弱り臥したる枕の夢の。覚むると思へば泉は其まま。尽きせぬ宿こそめでたけれ』

親孝行で有名な男、高風があるひ「揚子の市で酒を売れば家は栄える」という夢を見た。高風が揚子で酒を売るようになると店は大いに繁盛し、富を得ることができた。その高風の店に毎日やって来て酒を飲んでも顔色が変わらない男がいるので名前を尋ねると「猩々」と名乗り消えていった。そこで高風は月の美しい夜にしん陽の川のほとりに酒の壺を置いて猩々が現れるの待つと、やがて猩々が現れ友との再会を大いに喜び、酒を酌み交わす。猩々は高風の素直な心を誉めて、汲んでも酒が尽きない壺を与え消えていきます。

獨楽庵はまさに、「尽きせぬ宿」となっております。皆様に感謝。そして、「めでたけれ」。

獨楽庵亭主は、令和7年11月24日、銀座・観世能楽堂で開催されます松響会東京大会にて能・猩々のシテを勤めます。入場無料です。銀座にお越しのおりには、是非お立ち寄りくださいませ。

地蔵講

今日は地元有志による地蔵講。朝9時にお地蔵さんに集合し、お坊様の読経に続き全員で般若心経を唱える。法要後は会館に移動して懇親会。

この地蔵講、亡き父も発起人の一人であったらしい。当初は、父の同級生を中心に10名程が地蔵前に集まり、一日飲み明かしたという。当時は地蔵講ではなく、「おこもり」と呼ばれていた。子供心に「おこもり」の記憶はある。母親は一日飲んだくれている父やその友人に眉を顰める場面もあったが、何となく親父たちの気持ちは伝わってくる。

太平洋戦争の末期、1942年八王子は米軍の空襲を受けた。多くの市民が焼夷弾の炎で命を落とした。その中に、父たちの友も多かったことだろう。空襲を生き延びて自由な空気を謳歌する父たちが、空襲で命を落とした友のことを思わなかったはずはない。父からは「おこもり」の意味を聞くことはなかったが、幼くして死んだ友の供養。これが「おこもり」の出発点ではなかったかと思っている。

この地蔵講、誰でも参加できるというわけではないのだ。地蔵講の講元からお声がかかりメンバーに加えてもらって初めて参加できるのである。何となく、秘密結社の様ではあるが、公平が必要以上に叫ばれる現代、このような閉鎖性は残っていてもいいのではないかと思う。