You’ve Got A Friend

Carole Kingのデビュー作にして1972年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞した『Tapestry(邦題「つずれおり」)』収録曲。1972年グラミーの最優秀楽曲賞でもある『You’ve Got A Friend(君の友だち)』

邦題の「君の友だち」は少々頂けないが曲は、50年経ったいまでも全く古さを感じさせない。この曲を聴いていてふと思ったこと。
この”友だち”とは神様ではないのか。

僕はキリスト教徒ではないので、深入りすることは差し控えるが、そう思えるのである。

”When you’re down and troubled. And you need some lovin’ care and nothin’, nothin’ going right. Close your eyes and think of me. And soon I will be there. To brighten up even your darkest night. ” そして、”All you have to do is call”とも語っている。

これは「神」だろうと。異教徒でも思う。

似たようなテーマの楽曲に、今井美樹が歌った『幸せになりたい』(作詞・作曲 上田知華)があるが、「冷たいやつがいる だけど友達が待っている ここにおいで」と歌い、友達に寄り添う気持ちを綴っているが、これはあきらかに実在する人間。

神について、ストレートに語らず、人間対人間のように綴りながら実は神について語っているという詩は意外に多いような気がする。

日曜日の昼間に獨楽庵の庭を眺めながらビールをのんで一考。

小唄考(2)

方角には「語りもの」と「歌いもの」に分類されるという。「語りもの」は三味線を伴って詞章を語り語るように唄う。詞章は気持ちを語るというよりは、状況を説いていくもので「叙事的」と言われる。先祖の謡の詞章がそうであるように。一方、「歌いもの」は、三味線をともなうところは「語りもの」と共通であるが、よりメロディ重視で歌詞も「抒情的」になる。と、言われている。

そこで、我が「小唄」であるが、一般的に「歌いもの」に分類されるようである。日本小唄連盟もそう言っているので、そうなのかもしればい。しかし、これには違和感がある。小唄の歌詞は確かに、多分に「抒情的」である。一見「叙事的」に淡々とした詩であっても、その実は情熱的であったりもする。

しかし、演奏形態としては、三味線と語り(太夫)による浄瑠璃に近い。演奏会などで例外的に団体で演奏することもあるが、基本は三味線方一人(たまに替手が入る)と唄手一人である。

これからが核心であるが。師匠からは、「語るように唄え」と指導される。節は確かにある。しかし、節に言葉を乗せてはならないということである。あくまで、言葉を言葉として捉え、余計な節はつけずに語る。加えて、基本的に三味線方と唄手は分業である。時に、弾き語りをすることがあるが、それは師匠が弟子に教える時に弾き語りができなければ、どうにもならないという理由からだ。舞台では、どんな名手でも弾き語りはしない。そこが「語りもの」と考えるべき所以である。

小唄を見せ物として弾き語りすることもあるだろうが、それはすでに「小唄」ではなく「俗曲」というべきであろう。

小唄松峰派55周年記念演奏会、無事終了

小唄松峰派樹立55周年記念演奏会。無事終了しました。当日のしかも直前になって、手締めの音頭を取れという無茶振りもありましたが、それを含めなんとか無事にお役目を果たすことができました。

小唄の他にも、お茶と能楽と二刀流ならぬ三刀流でなりふり構わず稽古を続けております。その三者、違うところはもちろん山程ありますが、共通点も。それぞれに「道」なんだなあと痛感しております。
稽古を続けていると、ある時「出来た」と感じる時がありますが、その瞬間に次の課題が見えてくるものです。そうして、徐々に高みに昇り、自信満々本番に臨むと、無慈悲に突き落とされる。それでもスタート時からは確実に進歩している。「道」とはそういうものなのでしょう。


今日から5月18日の日本小唄連盟『さつき会』に向かって稽古を始めます。場所は同じ日本橋・三越劇場。お茶では、9月15日(日)西葛西行船公園・源心庵『月見の茶会』にて薄茶席、10月24日(木)鎌倉・建長寺様『四つ頭茶会』にて薄茶席を担当します。
また、どこかでお目にかかりましょう。

小唄松峰派樹立55周年記念演奏会

地元の”悪い”先輩に強引に引きづり込まれた小唄の世界。稽古をはじめてはや25年。その間に師匠は2回替わり、現在は小唄松峰派の家元、二代松峰照師のもとで稽古に励んでいます。10年前には、「照正(てるまさ)」という名前も頂き、昨年は「準師範」も頂きました。

「準」とはいえ「師範」となのつく物を頂いてしまうと、「芸者が遊んでくれなくなるよう」と軽口を叩いておりましたが、実際に許状をいただくと、やはりその重みに身が引き締まります。その重みで稽古に励んだ、「雨の宿」と「一人暮らし」を唄います、また、番外では、八王子芸者衆の協力を得て、小唄振りで「未練酒」と「好きなのよ」を唄います。

この25年間、なんども舞台にあがりましたが、小唄の舞台というのは独特の緊張感があります。まず、一曲一曲が短いので、躓くと修正することができません。唄い手は1人。助けてくれる後見はいません。

お茶では、師匠から「常を晴れに、晴れを常に」と教わり続けてきました。「常」がいかに大事か。緊張とは、本番で稽古(常)以上のパフォーマンスを発揮しようとおもう心から生まれる。何事も、稽古以上のものは舞台ではひき出せないのだと悟れば、緊張はない・・・(はず)。あわよくば・・・というスケベ心が落とし穴。こういう心の乱れを大龍和尚は「矛」と言った。そして、その「矛」を己の心を一槌にして打ち砕けと。

万が一、明日午後日本橋にお出かけのことがあれば、三越劇場に冷やかしにお越しください。もちろん、入場無料です。

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能を観に京都へ

京都の北東、一乗寺という地にある関西セミナーハウスにある能舞台「豊響殿(ほうきょうでん)」で催された能を観に京都へ。この地は、雲母(きらら)と呼ばれているようで、豊響殿に登っている急坂道には「きらら」を冠した看板がいくつか見れる。

「豊響殿」は豊臣秀吉三百年遠忌に京都・豊国神社に造られたが、その後この地に移設されたとのこと。豊かな自然の中にある能楽堂。鳥の囀りや竹藪からの風の音が流れてくる中での能は、ビルの中の能楽堂での能とは違い、その出自を感じさせてくれす。

番組は、「百万」。狂物の代表作。奈良の西大寺あたりで子供と生き別れになった女(百万)が狂女となって京に登り嵯峨野清涼寺に辿り着く。ここで、曲舞を舞いながら子供行方を探すのであるが、そこに子供が拾った男と一緒にやってくる。男は、門前の者に面白いものはないかと尋ねたところ、門前の者は百万を勧める。仏のご加護か、我が子の目の前で舞を披露する百万。子供は舞から自分の母であると気づくが、なぜか名乗りでずに舞を観続ける。最後に男が、この子こそ貴女が探していた息子であると名乗り。母子は無事再会を果たし奈良の京都に帰っていく。というストーリー。

狂女の「狂」とが精神錯乱状態になっているという意ではなく、一心不乱になっているという意味。我が子の行方を探すことだけを念じている。百万はそういう女。

能には、子供と生き別れになったという設定のものが少なくない。百万のように理由もわからず離れてしまったのもあるし、攫われたものも。果ては、自分から捨てたというものもある。今の「人権」時代にはありえない話であるが、当時は普通にあったのかもしれない。大抵は再会を果たしハッピーエンドで終わるのであるが、一つだけそうでないものがある。「隅田川」。隅田川の登場人物の供養と伝えられる木母寺は芸能精進祈願でも知られる。この墨田区墨堤通りにある。

墨堤通りといえば、長命寺の桜餅。豊臣秀吉公から桜餅か(笑)

小唄考(1)

「小唄ってなに?」と尋ねられて、一言で説明するのは難しい。25年も稽古を続けていながら・・・ 

そもそも、巷には「祇園小唄」や「お座敷小唄」など「◯◯小唄」という楽曲が数多くある。この場合、「小唄」というのは”短い” ”軽い”唄という意味であろう。しかし、ここで考えようとしている「小唄」は、「◯◯小唄」とは一線を画するもの。あえて言うなら、「江戸小唄」。

小唄の成立を辿ると「端唄(はうた)」から派生したという文章が目につく。実際に、「端唄」と「小唄」両方の看板を出しているお師匠さんも少なくない。だが、敢て小唄と端唄は別物と主張したい。そもそも、端唄は江戸時代にうまれた「流行歌」である。誰がつくったのかも記録されていない。口伝いで普及した流行化である。

これに対して、小唄は作詞者、作曲者がきちんと記録されている。そもそも、小唄はは江戸時代の末期に、二代清元延寿太夫の娘、お葉が父の遺品からみつかった松平不昧公の歌「散るは浮き 散らぬは沈むもみじ葉の 影は高尾か山川の水」に少し手をくわえ節をつけたの始まりといわれている。「小唄 散るは浮き 作詞 松平治郷 作曲 清元お葉」なのである。

先輩諸氏からは「小唄はきちんと師匠と正対して習い、外で唄うときには師匠に許された曲のみとすべし」と教わった。作者がはっきりしているのであるから、しっかり稽古して節をしかりと身につけなければならない。適当では済まされない、ある意味「道」の要素がみてとれる。端唄にそういう要素はない。

写真は、不昧さんのお国、松江の銘菓「山川」。

ド素人のラケットインプレッション

かれこれ3ヶ月テニスから遠ざかっています。そのストレス解消にと、ラケットの新調を試みました。今時であるからYouTubeなどインターネットの上の情報をかき集めて決めたのは、ダンロップのCX200os。ダ社の製品は、Cで始まるのはコントロール系ということで、ラケットがボールを飛ばしてくれる感は少ないが、打感が良いというもの。末尾についてる”os”は、”over size”ということで、現在主流の100平方インチよりも5%広い105平方インチ。いわゆる“デカラケ“です。

フレームはしっかり、打感はソフトという好みのスペック。ダンロップのアイコンである、元日本一位の鈴木貴男プロのコメントでも、打感のソフトさは強調されていました。鈴木プロのプレイスタイルは“サーブ&ボレー“。プロの世界では全くみなくなったプレースタイルですが、アマチュアではまだまだアリ。不祥私もその末席を汚しているわけでございます。鈴木プロはそのポンコツ。サーブ&ボレーヤーの憧れのプレイヤーの一人であります。その鈴木プロが、柔らな打感を絶賛しているのですから手に入れない話はありません。長年付き合ってきたウイルソンから「浮気」でもあります。

そのCX200os。初打ちしての感想は、①確かに打感は柔らかいが、もっと球を掴むフィーリングが欲しい(←ストリングで対策できるかも)②意外や弾道が低い(フラットで打つとネットしやすい) ③サーブは回転をコントロールしようとせずに素直に当てれば素直にスライス回転がかかる  ②はもしかしたら、フラットに打ったつもりでも自然とスピンが入っているのかもしれない。もっとネットの上を狙って打てば、スピンがかかって良いドライブになるのかもしれない

というところ。満足度は70%という感じです。使い込んでいけば、もっと長所が見えてくるかもしれません。

富山にて

金沢からの帰り道、富山で寄り道。あまり時間に余裕がないので、駅前で店を探したところ、駅ビル内に「北陸料理」と銘打った和食店を発見。

「魚の昆布締め二種」「すり身の揚げ物」と地元の純米吟醸酒を注文。昆布締めは、王道の鯛とキハダマグロ。赤身魚の昆布締めは初めて。要はなんでも昆布締めすると一味上がるということか。流石にトロは無理だろうが。すり身の揚げ物は、いわゆるフレッシュな薩摩あげ。

追加で注文した「新茗荷と生麩の玉子とじ」は土鍋で登場。出汁を張った土鍋に生麩と茗荷を投入して煮立ったところで溶き玉子とう感じか。これは懐石の煮物椀としイケるかも。

金沢へ

土曜日(3月23日)に金沢市内の月心寺で催される茶会『隆茗会』におじゃまするため前日から金沢入り。

金沢在住の旧友を呼び出して居酒屋で腹ごしらえののち、片町のバーへ。歴史を感じるたたずまい。カウンターのなかにはバージャケットのマスターが。山口瞳の作品に出てきそうなバーだなあ・・・と思っていたら、山口瞳の名エッセー『酒呑者の自己弁護』の表紙カバーが描かれたコースターが。みればカウンター奥の壁には山口瞳の書が。

マスターは国立に少なからず縁があるようで、旧友とともに国立話に花が咲き、ついもう一杯。「痛飲」にまで至らないのはお互い歳をとった証左かもしれない。

思えば、今の日本に対するモヤモヤした気持ちは山口瞳的な親父がいなくなったからなのかもしれない。襟を正して酒場に向かう。店に迷惑をかけないように心を配りながら、それを見せない。こういう飲み方をする大人がいなくなった。ふと気づけば自分がそういう年代になっている。襟を正そう。

山田宗徧忌

3月17日(日)東京音羽・大本山護国寺にて茶道宗徧流関東地区主催、山田宗徧追善法要および茶会が催されました。

護国寺の大本堂は江戸元禄期の創建。同じ頃、山田宗徧は小笠原家の茶頭を辞し家督を娘婿の二世宗引に譲り一人江戸に下りました。江戸随一と称えられた護国寺大本堂を宗徧も参拝に行ったことでしょう。当日、本堂には百名を超える門人が入堂し立ち見も出る程。御導師、山内式衆の読経のもと流祖・山田宗徧の遺徳を偲びました。

いつもは満開で我々を迎えてくれる本堂脇の早咲きの桜は、すでに散りはじめていました。寒い日が続いているとはいえ、春はもうすぐそこまで来ているようです。

江戸に移った山田宗徧は、数年後「赤穂浪士事件」という世紀の一大事に遭遇することになります。吉良家、赤穂浪士双方に弟子・茶友をもつ宗徧にとって「赤穂浪士事件」どのように映ったか。想像に難くありません。その宗徧の心を思い、吉良家・浅野家の霊をともらうため宗徧流では毎年12月「義士茶会」を開催しています。一昨年は、ここ護国寺で開催。昨年は山田宗徧が晩年の一時期を過ごした静岡で。今年は、小笠原家ゆかりの九州・唐津です。