茶の湯はセレモニーなのか

茶会を英語で”Tea Ceremony”と表現することが多い。確かに、静かな空間で神妙な顔つきで、数々の意味のありそうな、なさそうな所作を繰り返すその様子は特に外国人には「儀式」と見えなくもないのだろう。また、普段から「一椀に心を込めて」と指導されるので、少なくとも精神性はあるのだろう。”Tea Party”よりは遥かに良いように思える。

しかし”Tea Ceremony”という言葉には、いち茶の湯者として大きな違和感を禁じ得ない。茶の湯と仏教、特に禅宗との関連性はいたるところで指摘されているが、お茶を点てること、お茶でもてなすことに宗教性があるかといえば、疑問ではある。

例えば、茶事のおもてなしの本質は、亭主自らが給仕することに尽きると思う。旬の食材を生かした料理も季節感豊かな器も魅力ではあるが、やはり亭主自らが・・・という部分が肝であると考えている。その延長で考えれば、後座の喫茶は同じく亭主自らが客の面前で茶を点てることが本質と考えるべきだと思う。とすれば、点前とは客の面前で茶を点てることに尽きるはずである。そこに宗教性も、儀式性もましてやパフォーマンス性は必要ないはずである。

ただただ、客の面前で美味しいお茶を点てること。茶を点てる作業と考えれば、客の面前でも水屋でもやることは変わらない。客の面前ですることを、見られていないからと疎かにすることは堕落といわれても仕方ない。その違いは、極小の飾りしかない茶室で客が目にする大部分は点前する亭主であるという事実である。だとしたら、亭主は茶を点てる人であると同時に飾りでもある。

点前は派手さはないが眺めれば眺めるほど味わい深い茶道具のようにありたいと思う。できれば、生きているという気配も消してしまいたい。これが、現時点での点前についての心持ち。

師走の趣向

このところ、数回にわたって宗徧流の義士茶会について書きました。14日が近づくとどうしても討入のことが気になってしまいます。習性ですね(笑)

義士茶会の趣向というと、まず外せないのが「桂籠」。一般には桂川籠と呼ばれる利休によって見出された桂川の漁師が使っていた籠です。本懐を果たした赤穂浪士が、吉良邸にあった桂籠を白布に包み首に見立てて凱旋したという話によります。利休伝来の桂籠は宗旦かた宗徧に渡り討入と遭遇しました。この籠は現在、香雪美術館が所持しています。この桂籠に入れるのは白玉椿。瑤泉院が贈られた白玉椿を見て義士達の切腹を悟り安堵したという話に由来しています。

宗家での義士茶会では、席入りの合図は「山鹿流陣太鼓」でした。軸は大徳寺祥山和尚筆の「聴雪」が定番。茶杓は、大高源吾(子葉)作の「節なき」。吉良家江戸家老の小林平八郎が所持していた茶入れ「山桜」が出されたこともありました。

その他、点心は蕎麦。夜泣き蕎麦屋に扮して吉良邸を探っていた杉野次房にちなんでとも、討ち入り前に皆で蕎麦を食べたとも言われています。細かいところでは、輪炭を使った蓋置。吉良公が炭小屋に潜んだからとのこと。大高源吾と宝井其角の両国橋での邂逅から、「宝船」。菓子は、赤穂の塩饅頭・・・などなど。

全ては出来ませんが、12月はできるだけ義士茶会(忠臣蔵)の趣向を取り入れたいと思っています。

日常の茶

一般社団法人 獨楽庵が活動を開始して以来、試行錯誤を繰り返しながら、現在は「獨楽庵茶会」を中心にとした運営に落ち着いています。獨楽庵茶会とは、獨楽庵友の会の会員様をお客様に、一汁三菜の侘び仕立て懐石による「小茶事」です。「小」と加えているのは、今日の標準的な茶事と比較すると、「亭主迎付け」、「炭点前」が省略されていることによります。初座の懐石も、預鉢、強肴、八寸、千鳥の盃などを廃止、飯、汁、向付、煮物椀、焼物、香の物、湯桶によるミニマルな侘び仕立てにしています。これは、亭主の力量ということもありますが、懐石は小腹を満たす程度にし、後座の御茶に重きを置きたいという思いも込めています。初座の懐石は広間で、後座は小間で行うため、必然的にお客様の面前での炭をつぐこと(炭点前)も必要なくなります。

このような構成だと、御茶に重きを置き、お客様との対話を楽しんでも三時間程度で終了します。古来、「茶事は二とき(4時間)を超えぬこと」と諌めされてきました。4時間を超えれば、朝会が4時間を超えれば、正午の茶事に差し障り、正午の茶事が4時間を超えれば夜咄に差し障るからです。

今日、茶の湯の現場は「ハレ」だけのものになってしまいました。「大寄せの茶会」にしても、「茶事」にしても、特別な事になっています。これに対して、獨楽庵では「日常の茶」を模索しています。獨楽庵風の小茶事である、「獨楽庵」茶会であれば亭主一人でも一日三席(朝茶、正午、夜咄あるいは飯後)開くことができます。しかし、一方で「ハレ」の席のように一つの席に向けて料理を吟味し、道具を選ぶことはできません。どうしても「日常感」は否めないと思います。そこを出発点として、茶会(茶事)を探求していきたいと考えております。よりよいものにするために、皆様のご指導、ご助言、大歓迎です。