能と茶道の共通点

11月24日の能舞台に向けて稽古も佳境に入っています。能面をつけての稽古では、極限られた視界の中で、いかに正確に舞うことができるか。これには2つの要素があります。一つは、正しい位置に移動することができるか。

もう一つは、限られた視界では限られた視野から自分の立ち位置を俯瞰的に把握しよと、能の情報処理能力が大量に消費されます。最近の乗用車はバードアイと言って自車両をバーチャルに俯瞰するシステムが備わっていますが、それを脳内でやっている感覚です。そのため舞に使われる処理能力が限定され、ポカが出たりします。どちらも視界が極めて限定されることに起因しています。鼻の先数センチにある直径2センチ程の穴が視界の全てです。ここからの景色に頼ることに起因しています。

だったら、「視界に頼らなければいいではないか」。幸いなことに、能舞台には4本の柱があります。これだけに集中して、自分の立ち位置を俯瞰することを放棄できないだろうか。舞もできれば、お囃子に乗せて自然と体が動くようになりたい。あと二週間と数日。どこまで視界を捨てられるか。どこまで舞を体に染み込ませることができるかが勝負です。

お茶の点前もそうです。茶の量、湯の量、お茶の練り具合から始まり点前の隅々まで、いかに視界に頼っていることか。家元で稽古をしていると、まず茶碗を覗き込まないことを徹底されます。そして割稽古。能の型の話を書きましたが、これは茶道の点前で言うと割稽古です。割稽古を徹底して体に染み込ませる。このことで、視界から自由になれるのではないと思うところです。ライトを消して、自然光だけの薄暗がりで稽古することの意義を発見しました。

鱒の塩焼き

昨日は、地元の福祉施設の秋祭り。入所者、職員はもちろん近隣の住民を招いてのイベントでした。朝、この施設の理事を勤めている元町会長から携帯に電話。鱒の塩焼き要員に駆り出されました。

この日のために200尾の鱒が手配されており、80尾はプールに放たれて「釣り堀」に。残りは下拵えされて駐車場に建てられた町会のテントに。9時半頃に集合。キャンプ用のバーベキュー台で早速炭の準備を進めますが、着火剤くらいでは炭に火がつかないのは常の通りです。家から、細かな(火がつきやすい)炭を持ち込み、まずその炭に火をつけて、その火で焼き物用の炭に着火することでなんとか炭の準備完了。茶室の炉と灰の力を再確認。

その後は、午後2時過ぎまでひたすら鱒を焼き続けました。テントの傍では、鱒の唐揚げも作っていましたので、約100尾焼いたことになります。途中、何度か試食しましたが炭火でじっくり焼いた鱒は美味いですね。頭からガブっと。ビールが欲しいところですが、じっと我慢。

所内には、キッチントラックも来ていたり、射的やスーパーボールすくいなどのゲームのブースも。施設内では、高校の吹奏楽部、合唱部の演奏。地元の阿波踊り連のパフォーマンスなど家族で一日楽しめるイベントでした。

こういう場所で、茶道体験はうけるのでしょうか。

茶道と能の共通点

11月24日の観世能楽堂に向けて、『猩々』の稽古が佳境に入っています。
これまで何度か書いたと思いますが、改めて能と茶道の共通点について思い知らされています。

能は型の連続です。特に舞はそうです。ですから、能を洗練させるためには一つ一つの型を正確に美しく身につける必要があります。それとは別に、型の組み合わせ、順番を覚えなければなりません。これも、型の連続と考えると理解が進みます。

一方の茶道の点前。これも型の連続と考えることができます。茶碗の持ち方、立ち座り、柄杓の扱い・・・云々。全てが一つ一つの型に分解することができます。ですから、点前を洗練させるためには、一つ一つの型を正確に美しく身につける必要があります。これは、従来「割稽古」と呼ばれていた教授法です。しかし、許状が進み複雑な点前を稽古するようになると、順番に意識がいってしまい、型を身につけることが疎かになるようです。どんなに上級の複雑な点前と言っても、全ては型に分解することができるはずです。意識を順番よりも型に移すことが上達の近道ではないかと思っています。

そして、両者に共通していることは、型は型として完結させ、型の途中に次の型を初めてはならないということ。能でこれをやると、見るからにダラシなく見えるようになります。茶道でもきっとそうだと思います。

一つ一つの型を大切に。型を完結してから、次の型に入る。「型」という意識が大事です。そして、ノリよくつなげること。

ーーー 東京松響会 ーーー

日時 令和7年11月24日(振替休日) 午後9時半開演
    *私の出番は、16時頃
会場 観世能楽堂 東京銀座・ギンザシックス地下3階
入場料 無料

お近くにお出掛けの際には、是非お立ち寄りくださいませ。