ご飯の誘惑

春の声が聞こえ始めると、茶人は炉から五徳を取り出し釣釜を楽しみたくなります。本来、露の季節はいつ釣釜を設えても良いのですが、やはり釣釜は春が似合います。春の麗らかな日差しとゆらゆらと揺れる釜が春の気分を盛り上げてくれます。

同時に、茶事では趣向を変えて茶飯釜をしたくなるのも茶人の常。茶飯釜とはその名の通り一つの釜で飯を炊き、茶を点てる趣向です。通常の茶事では、最初に運ばれる繕に向付、汁と共に炊きたてのご飯が載せられます。茶飯釜では、そのご飯をお客様の面前で炊く訳です。

ご飯がうまく炊けることを願いながら炉に炭をつぎ、釜に白米を入れて炉に掛けます。しばらくするとグツグツとコメが煮える音がして、いい香がしてきます。釜から湯気が漏れそれが止まるる頃には香ばしい香りがしてきます。そうしたら、釜を少し火から遠ざけ蒸らします。仕上げはもう一度釜を火に近づけ「おこげ」を作ります。これで出来上がり。おこげの香ばしい香とピカピカに炊けたご飯がお目見え。

日本人としての幸福感は最高潮。茶飯釜はもともとは懐石の準備ができない時の緊急避難的な趣向だったと教わった記憶があります。ですから、茶飯釜の懐石は侘びに徹します。むしろその方が炊き立てご飯の魅力が際立つようにも思います。

四月は炉の名残。ゴールデンウイークが明ければ、風炉のシーズンの始まりです。去り行く炉を愛でながら、茶飯釜を楽しもうと思います。

能と旅

能の一つの形式として、複式夢幻能というものがある。前半、後半で構成されていて途中、間狂言が挟まる。そして、後半は夢か現実か。

まずワキが登場する。大抵は、田舎の僧侶である。多くの能が書かれた室町時代。国を跨いで移動することは極めて稀なことであったようである。普通の人が国界を超えて移動することは、異様なことであった。まず怪しまれる。しかし、一部の人、例えば僧侶はそこには含まれない。もう一つの例外は、白拍子である。だから、能で旅をする人は僧侶と白拍子が多い。

一度も都を見たことのない僧侶は、ある日思い立って旅に出る。そして、大抵は急いだので予定よりも早く“ある場所“についてしまう。そこで、休んでいると、怪しい人物(前シテ)が現れて、とある人物の昔話に花が咲く。あまりに詳しいの怪しんだ僧侶が、「あなたは?」と尋ねるとスーッと消えてまう。ここまでが前半。

ここでアイ(狂言)が現れる。設定は村人である。僧侶は、村人に「先ほどこれこれな人に出会ったのですが」と尋ねると、村人は「そのような人は知りません」「さりながら」とこんな話は知っていますと話始める。それは、前半で怪しい人との対話で話題に登った人物に関わる話。

狂言方が幕に消えると後半が始まり、話題の人物の霊が現れる。大抵は、思い残したことがあって成仏できないでいる。そこで、僧侶が読経し祈りを捧げると、霊は満足したのかスーッと消えていく。全ては、夢か幻か。

で、その場所は名所なのである。例えば、源平合戦の舞台となった瀬戸内には“ある場所“が多い。そして、それは例外なく名所なのである。能は旅心を刺激する広告の役割も果たしていたようである。

旅の目当ての一つとして

ある日の獨楽庵。楽山焼の茶碗から松江ときて、風流堂の「山川」の話になった。日本三大銘菓の一つ。紅白の打ち菓子で、菓銘は不昧公の「散るは浮き散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」からという。この不昧公の歌は小唄第一号にもなっていることは、このブログでも紹介したと思う。

日本三代銘菓とは、「山川」と長岡・大和屋の「越乃雪」、金沢・森八の落雁「長生殿」。菓子を知っていると、旅先での動き方も変わってくることだろう。銘菓を巡る。そんな旅も楽しそうだ。

「長生殿」と言えば、能「鶴亀」。正月元旦、不老門に現れた皇帝は民衆と共に新年を寿ぐ。すぐに鶴と亀が現れて皇帝の長寿を祝い舞を奉納する。興に乗った皇帝は月宮殿で自らも舞い、殿上人も大いに喜び皇帝は神輿に乗って「長生殿」に帰っていく。

能といえば、名所を紹介するという役割も見逃せない。移動が自由でなかった時代、生涯に訪れることができる土地の数は限られている。人々は、謡にうたわれている名所をそれぞれに想像し楽しんだことだろう。能の舞台を巡る旅も楽しそうだ。