軒つばめ

JR鎌倉駅では改札を一つ閉鎖しているというニュースがあった。その改札の上にツバメが巣をつくったからだそうだ。閉鎖されている改札には「ツバメ子育て中 巣立つまで温かく見守ってください」との張り紙が。なんとも和むニュース。
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/c9e3fe1048337b91edfcd505007c8bdfc48e5779&preview=auto

こちらは小唄。「軒つばめ」

🎵きまぐれに帰ってきたのか軒つばめ 濡れた素振りを見せまいと はずむ話もあとや先 洗い立てする気もついそれて あんまり嬉しい久し振り

なんとも意味深な歌詞ではないか。

武藤山治

少々政治の話に関わる。このブログでは政治の話は無しにしようと考えているが、このテーマだけは避けて通ることができない。現在、八王子・元横山町の桑都茶寮に現存する茶室「獨楽庵」の施主、武藤山治氏のことである。

山治氏は1867年4月5日美濃国安八郡脇田村(現在の三重県海津市)の豪農・佐久間国太郎の長男として生を受ける。米国留学の後、親戚の武藤松右衛門の養子となり武藤姓を名乗ることになる。1893年三井銀行に入社し、翌年鐘淵紡績兵庫分工場支配人として転出し、以後1930年(昭和5)に社長を退くまで鐘紡の近代化と成長に貢献。途中、実業同志社から政界に進出(衆議院議員)。1932年(昭和7)には時事通信社に入社し言論活動を始める。そして、1934年(昭和9)、北鎌倉の自宅前で凶弾に倒れる。

まさに波乱万丈の生涯であり、国を愛し、腐敗した政治を糾弾し、それを正すには国民の政治的成熟が必要と訴えた。1932年には大阪大手前に国民の政治教育の殿堂足るべく私財を投げ打って『國民會館』を創設。

その『國民會館』は今もその大手前で活動を続けている。その山治氏が北鎌倉に結んだ茶室「獨楽庵」を運営する身としては山治氏について学ばぬわけにはいかない。ということで、早速「國民會館」に入会。入会申し込みに際して、獨楽庵云々・・・について簡単に書き添えたところ、國民會館館長の武藤治太氏より著書を頂戴した。

早速、縁を感じつつ読み始めることにする。

山田宗徧忌

3月17日(日)東京音羽・大本山護国寺にて茶道宗徧流関東地区主催、山田宗徧追善法要および茶会が催されました。

護国寺の大本堂は江戸元禄期の創建。同じ頃、山田宗徧は小笠原家の茶頭を辞し家督を娘婿の二世宗引に譲り一人江戸に下りました。江戸随一と称えられた護国寺大本堂を宗徧も参拝に行ったことでしょう。当日、本堂には百名を超える門人が入堂し立ち見も出る程。御導師、山内式衆の読経のもと流祖・山田宗徧の遺徳を偲びました。

いつもは満開で我々を迎えてくれる本堂脇の早咲きの桜は、すでに散りはじめていました。寒い日が続いているとはいえ、春はもうすぐそこまで来ているようです。

江戸に移った山田宗徧は、数年後「赤穂浪士事件」という世紀の一大事に遭遇することになります。吉良家、赤穂浪士双方に弟子・茶友をもつ宗徧にとって「赤穂浪士事件」どのように映ったか。想像に難くありません。その宗徧の心を思い、吉良家・浅野家の霊をともらうため宗徧流では毎年12月「義士茶会」を開催しています。一昨年は、ここ護国寺で開催。昨年は山田宗徧が晩年の一時期を過ごした静岡で。今年は、小笠原家ゆかりの九州・唐津です。

自論:フレンチイノベーション

フランステレコム(日本の電信電話公社にあたる)は、電話帳を印刷し配布し、電話番号と居合わせのオペレータを維持するコストを10年間試算した結果、各家庭にビデオテックス端末を配布し、それらをパケット交換網でサーバーに接続する方が安上がりと結論に達した(と言われている)。

そこで、トランスパックというパケット交換網をフランス全土に張り巡らした。パケット交換網というのは電気通信の一つの形態で、情報を細切れにし、蜘蛛の巣のように張られたネットワーク上にバラバラに流し、最後に結合させて元の情報に戻すという通信技術。現在のインターネットもパケット通信である。いわば、インターネットの原点のような通信網を1982年に完成させ、ミニテルという画面とキーボードが備わったオールインワンの端末を全家庭に配布しサービスを開始した。基本的には、電話番号帳を廃止し各自が電話番号を端末を使って検索するというサービスであるが、後に旅行代移転やレストランなどが相乗りし予約を中心に様々なサービスを提供するようになり、一大文化圏を構築するに至る。

現在の視点で見るとかなり原始的なサービスであるが、まさしくインターネットの原型を見ることができる。このサービス、当時は「ビデオテックス」と総称され各国の通信会社が先を競って実現を目指していたのであるが、どれも「実証研究」のまま頓挫している。フランステレコムのミニテルは、世界で唯一の成功例だと思う。

私は1980年代後半にフランスに在住していたので、もちろんこのサービスの恩恵に預かっている。フランスに入国して、部屋を借り、電話の契約を済ませると直ちにこのミニテルが送りつけられてくる。それを壁にあるモジュラージャックに差し込めがサービス開通。どのように使っていたかは忘れてしまったが、飛行機のチケットの予約はした覚えがある。これは、まさしくイノベーションであり、それもいかにもフランス的な。

前稿で、フランス人=ケチ=合理的 と書いた。ミニテルもまさしく電話帳を10年間出し続けるコストとパケット交換網を張り巡らし各戸に端末を配るコストを比べ、安い方を選択したのである。これぞフランス流と私は思う。

だから、シトロエンが「空飛ぶ絨毯」を実現するために余計なコストをかけるという発想はないし、その発想を受け入れる市場もないのである。ハイドロは唯一、全ての油圧系を一本にまとめコストダウンを図るということが道理であり、「空飛ぶ絨毯」その副産物にすぎないと、私は思う。それを金看板に持ち上げ、挙句最新技術を持って「空飛ぶ絨毯」を再現するなど本末転倒も甚だしい。そんなことでは、シトロエンのアイデンティティは保てないだろう。フランス流のイノベーション求められるのではないだろうか。

自論:フレンチ・イノベーション

首都高速を愛車(シトロエンC5ツアラー)で走っていたところ、その後継車であるシトロエンC5エアークロスとしばし並走することになった。こちらは時代遅れのステーションワゴン(フランス流に言えば“ブレイク“)。かたや今流行りのSUV。

愛車C5を一言で表せば、「最後のハイドロ・シトロエン」。車に興味のない方は「なんのこっちゃ?」だろう。簡単に言えば、普通の車のバネとダンパーの作用を、特殊なオイルとガスで代用したもので、一般には「魔法の絨毯」と称される浮遊感のあるソフトな乗り心地で有名。そのシトロエンの代名詞とも言えるハイドロニューマチックを搭載した最後のモデルが我がC5なのである。つまり、後継者たるC5エアークロスにはハイドロは搭載されていない。しかし、その乗り心地を再現するために、「プログレッシブ・ハイドローリック・クッション(PHC)という新技術を採用している。乗ったことはないが、おそらく同じような乗り心地を再現しているのだろう。

私はこのPHCという新技術を支持しない。なぜなら、それは1955年にハイドロニューマチックを世に問うたシトロエンの魂の曲解であるから。シトロエンは、「魔法の絨毯」を実現したくてハイドロを導入したのではない(と思う)。フランス人の根は「ケチ」(フランス人の皆さん気を悪くされたらごめんなさい)。ケチなフランス人が「空飛ぶ絨毯」を実現するために余計なコストをかけるはずがないし、それを受け入れるはずもない。ハイドロは、ステアリングを含め、パワーアシストを必要とする全てを一系統の油圧システム、すなわちハイドロニューマチックにまとめてしまおうというのが、そもそもの出発点であったはずだ。つまり、別々の油圧系統を持つよりも「安上がり」。これがハイドロの出発点。その後、種々のトラブルに見舞われ、ハイドロはサスペンションだけに残された。このあたりから、ハイドロ=サスペンション=「空飛ぶ絨毯」=シトロエン という図式に矮小化されていく。「空飛ぶ絨毯」こそ、シトロエンのアイデンティティになっていく。そのアイデンティティが、ハイドロを用いずに実現できるのであれば、信頼性を含めその方が好ましい(はず)。その帰結が、C5エアークロスに採用されているPHCである。

確かに「空飛ぶ絨毯」は実現できたのかもしれない。しかし、それがシトロエンというメーカーのアイデンティティだと考えるのは、下らぬ勘違いに過ぎない(と思う)。シトロエンのアイデンティティは「ケチ」なのである。言い方が悪ければ「合理性」なのだと思う。それを現代に再現しない限り、シトロエンのアイデンティティは薄まるばかり。やがて、泡沫に帰することだろう。

そこで思い出したのが、「ミニテル」。1982年に本格運用が始まったいわゆる「ビデオテックス」である。世界で唯一成功した「ビデオテックス」と言ってもいいだろう。

その「ミニテル」と「ハイドロ」の共通点は・・・話が長くなるので次回に。画像が、その「ミニテル(Minitel)」端末。

お化け

いささか旧聞に属しますが、花柳界には『お化け』という風習があります。節分の日に、芸者衆が変装をして客とともに大いに笑って鬼を退け、福を招くという慣わしです。

我が街八王子にも古くから花柳界があり、『お化け』も十年前に復活。コロナ禍d中断はありましたが、毎年楽しませてくれています。八王子花柳界のお化けが他の地と違うのは、芸者衆が仮装だけでなく、寸劇を披露してくれるところです。どれだけ稽古を積んだのか。もはや立派なパフォーマンスです。

今年は、水戸黄門を題材に、黄門様ご一行が悪行を重ねる悪代官を懲らしめるという鉄壁のストーリー。途中、芸者らしく鼓の芸が入ったり。最後は、全員で「マツケンサンバ」でフィナーレ。写真の姐さんは、ゴルゴ13メイクの角さん。

節分

昨日の寒さは和らぎ、穏やかな冬晴れの八王子です。今日は「節分」。獨楽庵が所在する八王子といえば、「高尾山・薬王院」。節分の今日は、豆まきが盛大に行われているはずです。

明日は立春。獨楽庵の庭の梅も花を咲かせています。茶室に注ぐ日差しもどことなく春めいた気がします。庭も茶室も徐々に春の装いに。と、初音が聞こえました。

斑唐津

去る12月5日、新宿・柿伝ギャラリーで開催されていた『藤ノ木土平展』を訪ねました。

酒器、懐石の器に紛れ数点の茶碗。斑唐津の茶碗が真っ先に目に止まり、即購入を決めてしまいました。白味の強い色合いも気に入ったし、何しろ土見せにケレン味が無い。「茶碗には茶を飲ませ、酒器には酒を飲ませよ」とは唐津在住の大先輩の言葉。

これから先、どのように変化するか。楽しみな器です。

山田宗徧 「今日の歌」

山田宗編作の歌に「今日」がある。「さしあたることのはばかり思へただ きのふはすぎつあすは知らねば」

私ごとであるが、10月14日に東京渋谷・セルリアン能楽堂にて開催された素人会で能『橋弁慶』のシテを勤め、その翌週には土日二日間に渡る流儀の茶会を仕切り、その三日後には家元献茶式のため伊勢神宮へ。帰京して、4日後には小唄で準師範を頂く。その間、茶室を風炉から炉に切り替え、「開炉の茶会」を開催。その合間に、地元町会の街道祭りで綿菓子作り、等々。そんな目まぐるしい毎日。「さしあたること」に集中することでなんとか乗り切ることに。何度、この歌のありがたさを痛感したことか。

しかしながら、山田宗徧は決して「行き当たりばったりの人」ではない。周到に準備を重ね、万端以上の準備を持って事にあたる人である(と、思う)。その山田宗徧を持ってして「さしあたることのはばかり思へただ」である。物事に流されて、とりあえず目前の要件をこなしていく・・・ということではない。準備に準備を重ねて、それでも「明日は知らねば」の心境なのである。

先日、近所の小中学生を集めて飯盒炊爨を行いました。子供達は、火や薪で炊かれるご飯を眺めてワイワイ・・・と想像していたのですが、実際は全く関心を示さず。子供達にとって、火は遠い物になってしまったのかもしれません。焚き火を見ることは無くなり、IHの普及で家の中でも火を見る機会は少なくなっています。

翻って、我々茶人。当たり前のように、炭を組み火を入れ、釜を掛けて湯を沸かしていますが、それとて日常生活とは接点を失いつつあります。「お茶だから」という区別な気持ちで火を扱っています。

これが進むとどうなるでしょうか。火がどんどん遠ざかるのは必至でしょう。特に都市部では集合住宅が増え、家の中で炭を使って湯を沸かすことは難しくなるでしょう。炭も手に入りにくくなっています。違う視点で考えると、炭を燃やせば二酸化炭素が出ます。湯を沸かすのに炭を使うよりも電気の方がクリーンです。

しかしながら、茶の湯に携わる一人として炭で湯を沸かし茶を発てる文化を継承していきたいのです。人間を動物と隔てているのは、火を使う技術・・・云々という説を持ち出す気はありません。単純に炭で湯を沸かすという行為が好きなのです。

いよいよ、炉の季節になります。赤々と燃える炭を眺める機会も増えます。この光景をできるだけ多くの子供達に見せてあげたいと思う今日この頃です。