生成AI

現代に生きるものとして、いつかは接点を持たねばならないと思いつつも、距離を置いていた生成AI(人工知能)。ChatGPTという名は聞いたことがあるが、まさか仕事の現場で。それも、最先端技術とは最もかけ離れていると思われがちな伝統の世界で使いこなされていることを目の当たりにして、脳みそを揺さぶられた。

考えてみれば、伝統の世界でも事務方がこなす仕事は他の業種と大差ない。人工知能によって効率も品質も上げられる余地はもちろんあるのである。生成AIというのは、例えば文章作成においては、文章力のあるなしに関わらず、とりあえず中央値くらいの品質の文章は条件さえ与えれば苦もなく作成してくれるようである。となると、人間の価値は、そこからいかに文章に魅力を与えるかということに尽きそうである。加えられる魅力とは何か。そこが問題のようである。と、今日のところは頭を整理ておこう。刺激が強すぎたようなので。

地蔵講

今日は地元有志による地蔵講。朝9時にお地蔵さんに集合し、お坊様の読経に続き全員で般若心経を唱える。法要後は会館に移動して懇親会。

この地蔵講、亡き父も発起人の一人であったらしい。当初は、父の同級生を中心に10名程が地蔵前に集まり、一日飲み明かしたという。当時は地蔵講ではなく、「おこもり」と呼ばれていた。子供心に「おこもり」の記憶はある。母親は一日飲んだくれている父やその友人に眉を顰める場面もあったが、何となく親父たちの気持ちは伝わってくる。

太平洋戦争の末期、1942年八王子は米軍の空襲を受けた。多くの市民が焼夷弾の炎で命を落とした。その中に、父たちの友も多かったことだろう。空襲を生き延びて自由な空気を謳歌する父たちが、空襲で命を落とした友のことを思わなかったはずはない。父からは「おこもり」の意味を聞くことはなかったが、幼くして死んだ友の供養。これが「おこもり」の出発点ではなかったかと思っている。

この地蔵講、誰でも参加できるというわけではないのだ。地蔵講の講元からお声がかかりメンバーに加えてもらって初めて参加できるのである。何となく、秘密結社の様ではあるが、公平が必要以上に叫ばれる現代、このような閉鎖性は残っていてもいいのではないかと思う。

耳を澄ませば

こと「茶道」に関しては、巷に「茶道」を習うことのベネフィットを著した本が数多く出回っている。それらを論評したり、ましてや批判する気など毛頭ないが、少々残念に思うことも否定できない。

私自身、ひょんな切掛から「茶道」に潜り込んで早25年。その間、茶道を続けることのメリットなど考えたこともないが、続けてきてよかったということは多々ある。それは、不純な話ではあるが、女性がつく社交場に行った際に、「お客さん、お仕事は何をなさっているんですか?」との質問は定番である。ここで、「お茶の先生」と答えると相手はかなり意表を突かれるのか、「掴みはバッチリ」ということになる。こんな与太話は傍に置いておくことにして。

真面目な話。日本で生活する上での面倒なこと(ほとんどは、作法であったり仕来りであったり)について、その源流を掌握できるのは茶道を習うことの一つの大きな成果だと思う。例えば、食事のマナー。それも和食について言えば、茶道を習っていれば間違うことはほぼ無いと思う。和食は世界で唯一、器を口元に持っていくことが正しい食礼である。だから、茶道でいうところの懐石には持ち上げられないような大きな器は使わない。しかし、大きな器も時にはある。この場合、料理を箸で摘んで口に運ばなければならない。まさか口を下に置いた器に近づけることは無いだろう。その道中、汁が垂れないか気が気ではないことはわかる。だから、多くの人は左手を添える。これは間違いである。なぜなら、汁が垂れた場合、その垂れた汁を受けた左手はどうするのか?まさか、舐めるわけにもいくまい。正解は、「懐紙」を添える。「懐紙」とは茶道を習い始めると最初に手に入れるべき「道具」である。茶道の懐石では、器を下におく場合、器から口までの道中、懐紙を添えるように徹底的に教わる。これなら、仮に汁が垂れた場合でも懐紙を捨てれば良いだけである。

「懐紙」とはその字のごとく、懐に持ち運ぶ紙の束であるが、大変便利な道具でもある。上の懐石を食する時はもとより、メモ帳にもなるし、茶席で大人数分盛られた中から自分のお菓子をとる時にも使う。口元を清めることもできるし、濃茶を飲んだ飲み口を清めるためにも使える。さらに、お金を渡すときに手元に金封がなければ最悪懐紙にはさむこともある。左様に便利な「懐紙」であるが、茶道に身を置かない限り目にすることは無いであろう。

話は大きく脱線したが、言いたかったのは、真面目くさって茶道を習うことのベネフィットなど語らない方がいいのではないかという事。所詮、お客様に給仕し、面前でお茶を点るだけのことである。しかし、「たかが茶道、されど茶道」。その意味は、自分の心に素直に耳を澄ませば聞こえてくるはずである。と、言いたかったのです。