京都に来ています

一昨日(4月4日)から京都に来ています。荷物を満載した車で午後に八王子を出発、中央道・名神高速をノンストップで走り切り京都に到着しました。旅の目的は、南禅寺で開催される茶道宗徧流全国流祖忌。流祖・山田宗徧の318回忌法要と茶会です。

不祥、私はこの流祖忌で南禅寺法堂において全国の宗徧流門人を代表して献茶をご奉仕する栄に浴しました。このことが決まっていらい稽古をはじめ、年が明けてからは獨楽庵に真台子を持ち出して稽古を重ねてきました。結果は・・・自分の至らなさを痛感する結果となったわけですが、同時に歴史というか人間の営みの流れのようなものを実感することができた得難い体験であったとも言えます。

かねて、茶道の変遷について、たとえば利休の革新についても、全ては茶の湯の大きな流れの中にあると評してきました。どんなにユニークに革新的に見えることでも、そのルーツは茶の湯という大きなうねりの中にあるという意味です。成功も失敗も、全て。その堆積こそが歴史。であるということを痛感させられた本日であり、この一年間であったと思います。

明日は京都でお茶に招かれたあと帰京します。


釣釜

春になると「釣釜の季節ですねえ」という声が聞こえる。確かに、春の障子越しの陽の中静かにゆらめく釜は、なんとも春の気配が感じられる。春に釣釜が似合うということに異論はない。しかし、春になって釜を釣る「口上」に炉の季節も終盤になって炉中の灰が増えて高くなってきたからというものがある。本当かな?と思う。

炉の季節、朝路に火を入れる前、湿し灰を炉中に撒く。日々撒く灰が溜まって来るということらしい。しかし、実際には、毎朝まずある程度の灰(獨楽庵では、下取りに十杯程度)を抜き、篩に掛ける。その後、灰を炉中に戻し形を整えて湿し灰を撒く。この時に灰の量は調整できるので、炉中の灰が徐々に増えるということはないように思う。

一方譲って、灰の量が増えたからというのが釜を釣る理由にはならないように思う。何故なら、釜の高さはそんなに変わらないから。確かに、雲龍釜などは鐶付が比較的低い位置にあるので釣れば、釜の底は高くなるけれど。

昨日稽古は釣釜の炭点前。宗徧流では、客が席入した時点では釜は低く釣られている。その釜を点前の最初で少し(鎖2つ分くらい)上げる。低い位置では、釜の上端は炉縁より低い位置がよろしいとのご指導であった。釜を上げた状態で、通常の高さ。すなわち釜に掛けた柄杓の柄と畳の間に指一本入る程度の高さ。であるから、低い状態では、釜の底は五徳に載せた時よりも低い可能性が高い。つまり、冬の間に増えた灰は釜を釣るには不都合である。

野暮な話はこのくらいにして、釣釜の季節。というか、五徳をあげてしまったので、必然的に釣らなければならなくなったという勝手な事情なのだが。風炉に移る前に、釣釜を楽しみ抜こうと思う。差し当たり、茶飯釜でもしてみましょうか。

写真は、寒の戻り。時々雪も舞う家元邸の露地。冬の名残の敷き松葉。

散るは浮き

このブログでも、何度か書いたかと思いますが記念すべき小唄第一号は、「散るは浮き」という曲です。江戸の末期、二代目清元延寿大夫の娘、お葉が父の遺品のなかから松平不昧公から贈られたという歌を見つけ、その歌に節をつけたものです。

不昧公の歌は「散るは浮き 散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水」ですが、お葉ささんが優れているのは、最後の一句「山川の水」を「山川の水の流れに月の影」と変更しているといことろです。水に映る月を加えることで、情景に奥行きができたと思います。

さて、能書だけでは伝わらないと思うので、動画を作ってみました。唄っているのは、小唄松峰派家元・二代目松峰照師匠です。松平不昧公にちなんで、不祥私のお茶のお点前動画をつけてみました。