丼茶会

筒井紘一著『利休の懐石』を読んでいて、ハタと膝を打った。元々、利休が実践し、紹鴎も『門弟への法度』のなかで「会席は珍客たりとも一汁三菜を過ぎぬべからず」としているのに対し、今日の懐石は一汁五菜どころか、八寸も千鳥の盃もついてくる。この差はどこに起因しているのか・・・というのが最初の好奇心であった。それに対する答えは概ね本書から読み取ることができる。

それ以上に収穫だったのは、本書の最終章「小林逸翁の丼茶会」である。著者の筒井紘一先生は、この逸翁の試みを、「現代の茶事の在り方の指針ともなるべき懐石」として紹介している。正確には、「北摂丼会」というが、懐石は丼程度で済まし、茶の趣向を楽しもうというものである。常々、今日の懐石が冗長かつ華美であると感じていた身には一つの光明に思えたのである。丼会の当番が、自身の新席披露にあたった南喜三郎の“発奮“した茶会には、「丼会の精神に反する」と苦言を呈したという逸話が披露されているところから考えてもこの会の趣旨は、質実であることと言ってもいいだろう。さらに、あえて加えるなら「手作り」。

向付で一献。続いて、創意のこもった手作りの丼で小腹を満たし、残りの時間は茶を楽しもうという茶会。何品も腕によりをかける必要もなく、丼なら自作は用意であろう。これで、十分。いや、より侘びの本質に近づけるのではないかとさえ思う。

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