戦に臨む侍が、矢などをいれて携帯する武具です。この箙には、小笠原家の家紋が描かれています。小笠原家当主のものだったのかもしれません。
茶道宗徧流の流祖・山田宗徧は二十五歳で元伯宗旦より皆伝を受けた後、二十七歳で三河国吉田藩・小笠原家に出仕。七十歳になるまで小笠原家に仕えます。その後、家督を後継者の宗引に譲り、自身は江戸に下向。向島に庵を構えます。ここで、赤穂浪士事件に遭遇するわけですが、その話は別の機会に。
箙といって思い出すのは、能「忠度」です。平忠盛の六男(清盛の異母兄弟)として生まれ、武道はもちろん和歌にも才能をみせ、その歌は勅撰『千載和歌集』にも選ばれますが、朝敵平家であることから詠み人知らずとして載せられている。これば妄執となり成仏できないという設定で、能「忠度」は作られています。
忠度が源氏の武者に討たれる場面は忠度のキャラクターをよく表しています。負け戦に退散するところを後ろから源氏に声を掛けられ、逃げるのも名を汚すと立ち止まり戦を挑む。善戦するものの多勢に無勢。忠度は右腕を切り落とされてしまいますが、気丈にも左腕で源氏の武者を投げ飛ばし、西に向かって念仏を唱えながら討たれます。討ち取った源氏方の武者が箙を見るとそこには忠度の辞世の歌が繋がれていました。戦場にあっても和歌を忘れない忠度らしい最後です。
「行き暮れて 木の下影を宿とせば 花や今宵の主人ならまし」