今日の獨楽庵 – 2024年12月11日

唐津で開催された宗徧流義士茶会から帰宅して、義士茶会モードになっています(笑)
今日は会員様とお連れ様、三名のお客様をお迎えしました。

寄付(ソファ席)に大石内蔵助の達磨図(印刷)。楓の間の床には、流祖・山田宗徧像。ここでも何回か書きましたが、山田宗徧は吉良家、赤穂浪士の双方に関わりがありました。獨楽庵の床には、桂籠(桂川籠)に白玉椿。

懐石は、スズキの昆布締め、蓮根団子の椀物、鰤の幽庵焼き。汁は、焼き豆腐と生湯葉。独楽庵では、茶入は古瀬戸累座。薄茶盛は、春慶塗面桶。主茶碗に鈴木五郎の志野。替は伊羅保、楽山焼(空入)、履目(那波鳳翔)。茶杓は成瀬宗巨作 銘「蘆田鶴」。蘆に足が隠れた鶴のように、切りどめ寄りの節。

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茶の湯はセレモニーなのか

茶会を英語で”Tea Ceremony”と表現することが多い。確かに、静かな空間で神妙な顔つきで、数々の意味のありそうな、なさそうな所作を繰り返すその様子は特に外国人には「儀式」と見えなくもないのだろう。また、普段から「一椀に心を込めて」と指導されるので、少なくとも精神性はあるのだろう。”Tea Party”よりは遥かに良いように思える。

しかし”Tea Ceremony”という言葉には、いち茶の湯者として大きな違和感を禁じ得ない。茶の湯と仏教、特に禅宗との関連性はいたるところで指摘されているが、お茶を点てること、お茶でもてなすことに宗教性があるかといえば、疑問ではある。

例えば、茶事のおもてなしの本質は、亭主自らが給仕することに尽きると思う。旬の食材を生かした料理も季節感豊かな器も魅力ではあるが、やはり亭主自らが・・・という部分が肝であると考えている。その延長で考えれば、後座の喫茶は同じく亭主自らが客の面前で茶を点てることが本質と考えるべきだと思う。とすれば、点前とは客の面前で茶を点てることに尽きるはずである。そこに宗教性も、儀式性もましてやパフォーマンス性は必要ないはずである。

ただただ、客の面前で美味しいお茶を点てること。茶を点てる作業と考えれば、客の面前でも水屋でもやることは変わらない。客の面前ですることを、見られていないからと疎かにすることは堕落といわれても仕方ない。その違いは、極小の飾りしかない茶室で客が目にする大部分は点前する亭主であるという事実である。だとしたら、亭主は茶を点てる人であると同時に飾りでもある。

点前は派手さはないが眺めれば眺めるほど味わい深い茶道具のようにありたいと思う。できれば、生きているという気配も消してしまいたい。これが、現時点での点前についての心持ち。