師走の趣向

このところ、数回にわたって宗徧流の義士茶会について書きました。14日が近づくとどうしても討入のことが気になってしまいます。習性ですね(笑)

義士茶会の趣向というと、まず外せないのが「桂籠」。一般には桂川籠と呼ばれる利休によって見出された桂川の漁師が使っていた籠です。本懐を果たした赤穂浪士が、吉良邸にあった桂籠を白布に包み首に見立てて凱旋したという話によります。利休伝来の桂籠は宗旦かた宗徧に渡り討入と遭遇しました。この籠は現在、香雪美術館が所持しています。この桂籠に入れるのは白玉椿。瑤泉院が贈られた白玉椿を見て義士達の切腹を悟り安堵したという話に由来しています。

宗家での義士茶会では、席入りの合図は「山鹿流陣太鼓」でした。軸は大徳寺祥山和尚筆の「聴雪」が定番。茶杓は、大高源吾(子葉)作の「節なき」。吉良家江戸家老の小林平八郎が所持していた茶入れ「山桜」が出されたこともありました。

その他、点心は蕎麦。夜泣き蕎麦屋に扮して吉良邸を探っていた杉野次房にちなんでとも、討ち入り前に皆で蕎麦を食べたとも言われています。細かいところでは、輪炭を使った蓋置。吉良公が炭小屋に潜んだからとのこと。大高源吾と宝井其角の両国橋での邂逅から、「宝船」。菓子は、赤穂の塩饅頭・・・などなど。

全ては出来ませんが、12月はできるだけ義士茶会(忠臣蔵)の趣向を取り入れたいと思っています。

茶道宗徧流義士茶会

今日(12月8日)は、茶道宗徧流の義士茶会です。今年は、九州・唐津で開催されました。唐津藩主・小笠原家の菩提寺であ近松寺で吉良、浅野両家の菩提をともらうための法要に続いて、濃茶席。唐津焼の本場らしく大ぶりな古唐津耳付の水壺、奥高麗の茶碗が目を引く。床には利休の炭の文。当時の炭の貴重さが読み取れる。

続いて薄茶席(未来席)は、近松寺で子供の頃から稽古を続けてきた大学生、高校生たちだけの運営。若々しい道具は、濃茶席と対称的でほっとさせる。続いて、旧大島邸に移動して力囲席(立礼席)は、新調の力囲棚で、席主の鹿児島支部らしく薩摩つくし。種子島焼きは焼締だとおもうが、野趣に富み見所が多い。点心を頂いて、バスでホテルに帰還。

夕方6時からはホテルで懇親会。200名程が円卓を囲む。打ち合わせでは、開会宣言、理事長挨拶に続き、観世流の同好3名で祝儀として仕舞「鶴亀」を。私は、シテを勤めます。地元の銘酒で鏡割りをして乾杯。いい酒が飲めるかどうかは、「鶴亀」の出来次第。

いい酒が飲めますように。

日常の茶

一般社団法人 獨楽庵が活動を開始して以来、試行錯誤を繰り返しながら、現在は「獨楽庵茶会」を中心にとした運営に落ち着いています。獨楽庵茶会とは、獨楽庵友の会の会員様をお客様に、一汁三菜の侘び仕立て懐石による「小茶事」です。「小」と加えているのは、今日の標準的な茶事と比較すると、「亭主迎付け」、「炭点前」が省略されていることによります。初座の懐石も、預鉢、強肴、八寸、千鳥の盃などを廃止、飯、汁、向付、煮物椀、焼物、香の物、湯桶によるミニマルな侘び仕立てにしています。これは、亭主の力量ということもありますが、懐石は小腹を満たす程度にし、後座の御茶に重きを置きたいという思いも込めています。初座の懐石は広間で、後座は小間で行うため、必然的にお客様の面前での炭をつぐこと(炭点前)も必要なくなります。

このような構成だと、御茶に重きを置き、お客様との対話を楽しんでも三時間程度で終了します。古来、「茶事は二とき(4時間)を超えぬこと」と諌めされてきました。4時間を超えれば、朝会が4時間を超えれば、正午の茶事に差し障り、正午の茶事が4時間を超えれば夜咄に差し障るからです。

今日、茶の湯の現場は「ハレ」だけのものになってしまいました。「大寄せの茶会」にしても、「茶事」にしても、特別な事になっています。これに対して、獨楽庵では「日常の茶」を模索しています。獨楽庵風の小茶事である、「獨楽庵」茶会であれば亭主一人でも一日三席(朝茶、正午、夜咄あるいは飯後)開くことができます。しかし、一方で「ハレ」の席のように一つの席に向けて料理を吟味し、道具を選ぶことはできません。どうしても「日常感」は否めないと思います。そこを出発点として、茶会(茶事)を探求していきたいと考えております。よりよいものにするために、皆様のご指導、ご助言、大歓迎です。