桑心会別会

昨日(2月18日)は、書道史・書文化研究の第一人者・名児耶明先生をお招きしての講演会でした。桑心会のメンバーだけでなく、書道家、書道愛好家をはじめ日本文化に関心を持つ方々20名以上にご参加頂きました。

中国から伝来した文字(漢字)がどのような変遷をたどり我が国独自の文字である仮名にいたり、さらにそこにどの様に芸術性が込められてきたか。先生の優しさ柔らかさの中に秘めた情熱に参加者もお話に聞き入っていました。文字の散らし方、線の濃淡、空間の使い方・・・などなどは、日本の自然に影響を受けているという先生の説を、実際の書と自然の写真を比べて解説され、すっきりと腑に落ちました。

我々現代人はあまりに活字に慣れすぎ、手描き文字の芸術性について無関心であったことを痛感しました。茶室に掛けられているお軸を鑑賞する際にも、どうしても内容に関心が入ってしまい、書を芸術として鑑賞するという姿勢がありません。なんともったいないことか。

講演会後は、先生を囲んで点心と呈茶。この場でも話に花が咲きました。

獨楽庵では、これからもこのような意義のある講演会を続けていきたいと思います。お楽しみに。また、ご参加をお願いいたします。

第一回 倶楽茶会

昨日(2月16日)は、獨楽庵初の大寄せ茶会『第一回倶楽茶会(くらくちゃかい)』でした。五十名のお客様に朝からご来庵頂きました。獨楽庵では、日頃は『獨楽庵茶会』と称して、一汁三菜の懐石によるコンパクトな茶事を開催していますが、「会員以外でも参加できる」「一人でも気軽に参加できる」茶会をとの声にお応えるかたちで実現することができました。

三畳台目の獨楽庵をゲストの席主にお使い頂くことで、獨楽庵の新たな魅力を引き出すのも『倶楽茶会』の目的の一つです。第一回の今回は、小田原・鎌倉を中心にご活躍中の無持菴・小張あゆみ氏に獨楽庵をお願いしました。湘南をホームとする小張氏らしく、武藤山治翁・好日会を中心に北鎌倉の数寄をテーマに興味深いお席でした。

午前中にいらしたお客様が多く、中には3時間お待ちい頂いたお客様がいらしたことが最大の反省点です。次回は、このような事がないよう、時間指定ができる形でご案内できるよう検討を開始しました。私は、広間で濃茶席を担当しました。小張氏の獨楽庵(薄茶席)と対比が際立つように趣向を考えました。如何でしたでしょうか。個々に反省点はございます。真摯に検討し次回に役立てたいと思います。

ご来庵くださった皆様。心より御礼申し上げます。
第二回もぜひお出ましくださいませ。

【お願い】最小限のスタッフで運営しておりましたため、茶会の映像記録を残す事ができませんでした。差し支えない範囲で結構ですので、画像を共有していただける方がいらっしゃいましたら、獨楽庵までご一報くださいませ(メール info@dokurakuan.com)。

★お忘れ物(鍵、風呂敷)がございました。お心当たりの方は獨楽庵にお申し出ください。ホームページまたはメールですとスムーズに対応できます。

箙(エビラ)

戦に臨む侍が、矢などをいれて携帯する武具です。この箙には、小笠原家の家紋が描かれています。小笠原家当主のものだったのかもしれません。

茶道宗徧流の流祖・山田宗徧は二十五歳で元伯宗旦より皆伝を受けた後、二十七歳で三河国吉田藩・小笠原家に出仕。七十歳になるまで小笠原家に仕えます。その後、家督を後継者の宗引に譲り、自身は江戸に下向。向島に庵を構えます。ここで、赤穂浪士事件に遭遇するわけですが、その話は別の機会に。

箙といって思い出すのは、能「忠度」です。平忠盛の六男(清盛の異母兄弟)として生まれ、武道はもちろん和歌にも才能をみせ、その歌は勅撰『千載和歌集』にも選ばれますが、朝敵平家であることから詠み人知らずとして載せられている。これば妄執となり成仏できないという設定で、能「忠度」は作られています。

忠度が源氏の武者に討たれる場面は忠度のキャラクターをよく表しています。負け戦に退散するところを後ろから源氏に声を掛けられ、逃げるのも名を汚すと立ち止まり戦を挑む。善戦するものの多勢に無勢。忠度は右腕を切り落とされてしまいますが、気丈にも左腕で源氏の武者を投げ飛ばし、西に向かって念仏を唱えながら討たれます。討ち取った源氏方の武者が箙を見るとそこには忠度の辞世の歌が繋がれていました。戦場にあっても和歌を忘れない忠度らしい最後です。

「行き暮れて 木の下影を宿とせば 花や今宵の主人ならまし」