晴れを常に、常を晴れに

師匠からは、宗徧流先代家元・四方斎宗匠のお言葉として伝えられている。稽古を始めた頃は、「お茶会での点前の気持ちで、日常の稽古を」と理解していた。

今でもそれは変わらないが、今は「茶事、茶会」のあり方について考える契機になっている。見切り発車で始めた一汁三菜の(ミニ)茶事である「獨楽庵茶会」。一汁三菜としたのは、茶事の比重を後座に持っていきたかったこともあるが、単純に料理の腕がないからである。また、一組三名と限っているのは、貧乏世帯の獨楽庵故、常に半東がいるとは限らず、ならば一亭でおもてなしできる範囲というのが真相である。

かくして、少人数、一汁三菜という「獨楽庵茶会」がスタートした訳であるが、毎回失敗と反省はあるものの、過分な世辞に支えられしぶとく続いている。こうして、続けていると「晴れを常に・・・」という言葉が実に味わい深く思えてくる。獨楽庵を預かることになり最初に思ったことは「茶の湯の実態」を実現すること。つまり、獨楽庵では日常的に「茶の湯」が行われていること。そうであって初めて獨楽庵は、「茶の湯」の場として空気を醸すことができる。実態がなければ、ただの茶席、庭園である。そこに命を吹き込んでこそ意義があると思うのである。

茶事を日常に。つまり、一年365日、一日三回(朝会、正午、夜咄)茶事ができるのが理想である。逆に負担になって続かないような茶事はしない。生活に溶け込んでこその茶の湯であり、茶事と思う。「晴れを常に、常を晴れに」

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